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2018年09月10日




映画解説 vol.11

人形という多様体

映画『ふるさとからくり風土記―八女福島の燈籠人形―』

 

川﨑 瑞穂(神戸大学・日本学術振興会特別研究員PD)

映画写真3

 秋分の頃、出店が並ぶ神社の境内を涼しい夜風が通りゆく。一角に建つ美しい舞台では、春の景色から一変、色鮮やかな秋の情景が広がる。そこで物語を演じるのは人間ではなく、人形である。不思議なことに、この舞台には文楽のような人形遣いはいない。まさか『美少女戦士セーラームーンSuperS』に登場する「自動人形カラクリ子ちゃん」のように、自分から動いているわけではあるまい。今回紹介する映画『ふるさとからくり風土記―八女福島の燈籠人形―』は、福岡県八女市に伝承されるこの人形芝居の舞台裏、まさに「からくり」を教えてくれる作品である。

 

 

 

 

 

 


   古今東西、様々な人形が生まれては消えていった。映像による「からくり」の「風土記」である本作は、古代の人形ともいえる、岩戸山古墳(いわとやまこふん)の石人(せきじん)のレプリカを映し出す。そして紙漉き、提灯や仏壇の製作、矢作りといった、現代の職人の町の風景を紹介していく。八女福島の鎮守である福島八幡宮(八女市本町)の境内では、江戸期よりからくり人形が演じられてきた。その舞台(屋台)は、八女の職人たちによって毎年組み立てて造られる。舞台を造り終えた彼らは、道具を楽器に変え、今度は音作りの練習に励む。小鼓(こつづみ)から習い始めるが、間違えたり、音が出なかったりと、舌鼓のように簡単にはいかない。

 

 

 

  囃子でからくりのリズムを身に着けた彼らは、裏方として人形の操作もおこなう。本作をみると、華麗に動く人形の下には、複雑な構造が広がっていることがわかる。人形の下にレールのように設置されている「横棒」を絶妙に操作し、内部に張り巡らされた糸の動きで人形の身体を動かしている。各人の横棒の操作がうまく噛み合うことで、はじめて人形に魂が宿るのである。その身体の中には、まるで血管のように糸が張り巡らされている。からくり人形の後ろで古時計が動く、どこか哀愁漂うシーンは、時計屋がからくり人形の作り手であったことを物語る。複雑な糸の「系列série」を操作すると、腕や首がどのように連動するのか、冒頭の映像の「からくり」を見せてくれる。

 

 

 

  

 そして祭りの日の夕刻。日が落ちて太鼓の音が浮かび上がってくる。提灯に火がともり、舞台では、本作冒頭と同じように人形が舞いはじめる。何の解説もなく人形を観ていた冒頭とは違い、われわれはその下や横でどのような操作をしているのか、もうその「からくり」を知っている。しかし種を明かされることでより美しく、感動的にさえ見えるのは、はたして私だけだろうか。本作に幾度か登場する大樹を虚心に眺めていると、人形を樹木に例え、その下に張り巡らされている「からくり」を根に例えたくなるが、さらに遡行すると、その人形も横棒も、元はといえば樹木から生まれていることに思い至る。そして樹木は土から生え出でる。足元の土から石を拝借して作った人形が先ほどの石人であるとすれば、その土から伸び出た樹木を拝借して作った人形がからくり人形であるともいえる。人形とは、われわれが自然界の線状の絡み合いの中から顕在化させた一部分なのであって、私たちがみているのはその多様体の一断面にすぎないのだ。からくり人形の糸を手繰っていけば、中心なき多様体の世界に潜入する糸口をみつけることができるかもしれない。

演目「春景色筑紫潟名島詣」の一場面

 

映画写真2

組み立て式の舞台

映画写真1

人形の内部構造

映画写真4

神社境内の楠(くすのき)

※写真は、すべてポーラ伝統文化振興財団による撮影


  からくり表紙記録映画「ふるさとからくり風土記-八女福島の燈籠人形-」(1987年制作/31分)
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※次回は10月10日、「われは水軍―松山・興居島の船踊り―」をご紹介します。

2018年09月05日

「なに焼ですか?」
僕の作品を見たときよく聞かれるフレーズです。きっと作品と対峙した時に、何かのきっかけを探してくれているのだと思います。
「なにやき・・・とかではなくて・・・」と僕が答え淀んでていると、だんだんと相手の顔が少し曇り、その内に、おでこの辺りに疑問符が浮かび上がってきます。

これは、「やきもの」の認識において、産地や伝統の大きさを感じさせられるやり取りです。

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今回、伝統や産地と深く関わることが無く、「やきもの」と向かい合ってきた作家として、陶芸やクラフト、自由な造形まで全てを含めた「やきもの」文化と現状について少し考えてみたいと思います。
粘土に熱を加えることで硬く耐水性のある物質に変化することを発見して以来、現在に至るまで、気が遠くなる程の長い間、人はせっせと土を焼き固めてきました。
そんな長い時間の中で、技術の蓄積や材料道具の進歩、地域性や美意識と様々な形で進化成熟し、現在の多様な「やきもの」文化が形成されたのだと思います。
日本でも、中国や朝鮮半島からの影響も受けながら、北から南まで沢山の産地が出現し、地域の原料、それに伴った技術や表現と、それぞれで独自の進化を遂げてきました。

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明治以降になると、それまで窯元や職人集団の産物であった「やきもの」が、個人の表現物として制作されるようになり、戦後に走泥社が出現して以降は、用途すら放棄した工芸作品が出始め、工芸の領域は拡張してゆきます。

一方で、機械工業の発達により、陶器は必ずしも手仕事ではなくなり、手仕事はある種の嗜好品となりました。

同時に、情報化や物流の進歩に伴い、各地域の文化や土着性は薄まり、逆に個人性が徐々に強まりながら、現在に至っているように思います。

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僕は、伝統も手仕事も身近ではない東京郊外のニュータウンで育ち、たまたま入学した美術大学で「やきもの」と出会いました。そんなこともあってか、始め から素材を芸術表現のメディウムとしてとらえ、その可能性を模索してきました。

伝統的な表現は、卓越した技術や地域性を継承しつつも、時代背景に影響を受けながら少しずつ変化、そして進化をしています。僕のようなどこの流派にも属さない「根無し草作家」は、同じ様な内容を個人のなかで行おうとしているのだと思います。

 

概念による芸術もすでにある意味で伝統化して、AIのニュースが毎日のように耳に入ってくる中にあって、「芸術の人間らしさってなんだろう?」「実材と それを変化させる行為から離れられない工芸にはどんな可能性があるんだろう?」と最近よく考えます。

 

そんなことを考えていると、すでに芸術表現には必ずしも必要では無くなった、素材や行為というのが実はすごく面白いことに思えるのです。意識的な行為、無意識の行為、時々失敗、それらの影響をキッカケにした反応としての行為、そしてまた反応・・・。

行為を軸に意識と無意識、そして揺らぎを集積させると、現れる「もの」はあらかじめ決められた目的や結果に向かって集約されるだけではないのです。瞬間における決定、あるいはその決定に左右され続けることもあります。同時に概念も瞬間に左右され続け、いたる道筋結果がつねに揺れ動き、瞬間の累積でモノが現れます。

 

アルゴリズムの外側でモノが出来上がるような感じです。

  Ogasawara08

人間や人格と同じように「もの」もそうあって良いのでは?という個人的な視点から思考し、私は「やきもの」を作っています。そして、僕のような個人的な発信が多方面から蓄積することによって、また新たな個人の発信につながってゆく、個の表現の集合として文化が出来ているのだと思います。

日本の「やきもの」文化は、個人レベルで時代やそれに対応した思想思考が反映され、様々なジャンルの垣根を越えながら国際的に見ても高いレベルで進化しています。

 

是非皆さん、一度、「やきもの」との会話をしてみてください。彼らは結構、饒舌に語りますよ。

 

小笠原 森
「やきもの・粘土の性質を受け入れることによって見えてくる、方法や成り立ち—それらを表現の可能性として、形を考えます。」

 

【略歴】

1978  東京都生まれ
1999  多摩美術大学 工芸学科 陶プログラム入学
2003  多摩美術大学 大学院美術研究科 工芸入学
2005  多摩美術大学 大学院美術研究科 工芸修了
      同大学 工芸学科 陶研究室勤務(2009まで)
2009〜 自宅・スタジオ兼ギャラリーの「Studio Stick」を立ち上げ制作活動
2012〜 多摩美術大学非常勤講師 

 

【入選・受賞】

2003  第39回神奈川県美術展 平面立体部門 入選
2007  第43回神奈川県美術展 平面立体部門 大賞
2011  美濃国際陶芸フェスティバル 入選

 

URL:http://www.ogasawarashin.net/profile.html

2018年08月16日

獅子舞や神楽といった民俗芸能は現在、都市化・少子高齢化などが原因となり、多くところで担い手不足・後継者不足の声が聞かれます。奈良県下の風流(ふりゅう)系太鼓踊りと呼ばれる民俗芸能もその一つです。奈良県の太鼓踊りは、担い手不足により伝承が危ぶまれたり、途絶えている太鼓踊りがありました。しかし行政や地元の小学校の協力によって、これまでの伝承方法から新たな伝承方法に変え、伝承を継続することに成功しました。ここではどのように伝承されているのか、具体的に見てゆきます。

  篠原踊りの伝承用映像(下のテロップは歌詞と太鼓のリズム)

奈良県五條市大塔町(おおとうとうちょう)篠原に伝わる篠原踊りでは、平成20年より様々な理由が重なり、伝承が厳しくなりました。そこで今後の伝承は篠原住民だけでは難しいため、平成26年に奈良県教育委員会が主導して、篠原踊りの担い手を奈良県内外より公募で集めることになりました。民俗芸能というのはその地域に根付いた芸能であるため、その地域の人々だけで演じ、伝承するのが通例です。そのため公募で担い手を募るのは非常に斬新な方法でした。その結果、篠原の住民・篠原の出身者だけでなく、奈良県内や大阪から初めて篠原踊りを習いたいという人々が集まり、「篠原おどり保存会」という保存会の規約を改訂して新たな伝承組織を再発足させ、伝承を再開することが出来ました。

それだけではありません。篠原おどり保存会では、現在の長老が踊れる演目を全て記録しようと考え、奈良県教育委員会と共に、記録用の映像を作成しました。全演目のうち、特に篠原の氏神である神社で毎年1月に踊られる3曲は記録だけではなく、今後この映像を見て練習ができるような伝承用映像を作成しました。写真のように画面の下に太鼓のリズム譜と歌詞をつけ、カラオケのように太鼓を打つ箇所・歌う歌詞の箇所になると色が変わるようになっています。この映像を見れば一人でも練習ができるのです。このように篠原踊りは奈良県教育委員会と上手に協力しながら、伝承方法を刷新し、伝承を続けています。

  篠原踊りの練習風景

一方では、同じ奈良県下の太鼓踊りでも全く異なるアプローチから伝承の方法を変えたところがあります。奈良市都祁(つげ)吐山(はやま)に伝わる吐山の太鼓踊りでは、担い手不足の問題を解決するため、平成6年より地元の吐山小学校の郷土学習の時間に吐山の太鼓踊りの指導を取り入れました(現在は小学校の統廃合により都祁小学校に変更)。小学生や吐山小学校を卒業した中学生から担い手を募りました。平成20年からは放課後子供教室のひとつとして太鼓踊りクラブが結成され、11月23日におこなわれる秋の例祭にて奉納することが定着しました。現在では小学校を卒業した中学生も練習に加わり、今では吐山の太鼓踊りの担い手に欠かせない存在になっています。

  吐山の太鼓踊りの練習風景

吐山の太鼓踊りの練習ではこれまで「天―天―天ツク天」といった唱歌(しょうが)を使って太鼓のリズムや打ち方を習得していました。しかし小学生・中学生の練習では、吐山小学校の元音楽教員が、より子供たちに分かりやすく教える工夫として自作の太鼓リズム譜を使用し、指導に当たっています。吐山の太鼓踊りでも従来の担い手の構成から小学生・中学生参入するという大きな決断をし、また練習方法も子供向けに創意工夫することにより、伝承をつないでいます。

このように、現在の民俗芸能の伝承は構成メンバーや伝承手段等を変えることにより、受けつないでいこうとしています。しかしこのような伝承の変化は今に始まったことではありません。これまでの太鼓踊りの資料や映像記録をみると、過去の担い手もその時代の状況に合わせ、伝承を工夫してきたことが分かります。民俗芸能は常にその時代の流れや人々によって工夫して変化させつつ、伝承しているのです。

荒木真歩

 京都市立芸術大学音楽学部音楽学専攻卒業。神戸大学大学院国際文化学研究科文化人類学コース博士前期課程に在籍。専門は音楽学、文化人類学。

  現在、民俗芸能の調査を奈良県全域と宮城県気仙沼市にておこなっている。また奈良県の文化財行政のもとで、報告書の執筆・採譜・伝承用映像制作に携わっている。

 

2018年08月10日




映画解説 vol.10

他者の顔と交わる夜

映画『端縫いのゆめ―西馬音内盆踊り―』

 

川﨑 瑞穂(神戸大学・日本学術振興会特別研究員PD)

  西馬音内2

 

 

 

 漆黒の闇の中、編み笠をかぶった踊り手がしなやかに動く。ナレーションが排されたこの空間に黒い頭巾をかぶった者が加わり、囃子と歌が響き渡る。今回紹介する映画『端縫いのゆめ―西馬音内盆踊り―』の冒頭シーンを見ると、ある人はその笠の隙間から僅かに覗く顔に色気を感じるかもしれないし、あるいは顔全体を黒い頭巾で覆う者に、言いえぬ畏れを感じるかもしれない。われわれは顔に無関心ではいられない。今でこそ“Face”bookで他者の顔は簡単に確認できるが、小さい頃の友達の顔を思い出そうとしてみると、ちょうど『20世紀少年』の「トモダチ」のように、顔を覆い隠してしまうこともある。なぜ顔が見えないだけで、私たちの心はそわそわするのだろうか。そもそも顔とは何か。

 

 秋田県で最も雪が積もる地帯であるといわれる雄勝郡羽後町(おがちぐんうごまち)に、西馬音内(にしもない)という魅力的な名前を持つ地域がある。雪国の市場の風景から、映画の登場人物の「顔」が次々に紹介されていく。没個性的な冒頭の踊りと、日常の個性的な人々との対比が印象的である。ある女性は、東京で学ぶ娘のために「端縫い」(はぬい)という盆踊りの衣装を作るのが長い間の夢であったと語り、実際に制作する場面を見せてくれる。この衣装は大小の布切れを一定の型に従いつつも自由に縫い合わせて作るものである。それはさながら「日曜大工 bricolage」のように、元の布それぞれの思い出をそのままに、器用に組み替えている。この盆踊り自体も同様に、いつの時代かに伝わったものが当地で組み替えられ、独自の変化を遂げたものである。

 

 美しい夏の風景が映し出され、8月16日から18日にかけての盆踊りが近づいてきたことを知る。夕べの大気に漂う囃子にのって、子ども達の踊りがはじまる。そこに、あの黒頭巾の者が再度登場する。この盆踊りは別名「亡者踊り」とも言い、「彦三頭巾」(ひこさずきん)をかぶるこの役は亡霊を表すとも言われている。夜は更け、人々の顔がなくなっていく。子ども達の踊りから大人の踊りへと移り、最後に踊り自慢の人々が登場する。ここで静の囃子《がんけ》と動の囃子《音頭》が説明されるが、字幕で歌詞が表示されるため、初めて観る人でもどのような歌を歌っているのかが分かるように配慮されている。

 

 

 映画の最後は冒頭と同じく暗闇の空間で踊り手が踊るが、おわりに皆が顔を出していく。隠れていた顔が現れることで初めて、人間の顔は、比較できると同時に唯一無二であり、さらにそれぞれ無限の顔も持つことを知る。もしかしたら、本作で「顔」が現れるのは冒頭だけなのかもしれない。はじめに私たちと「顔」との間にはある種異常な隔たりがあり、編み笠や彦三頭巾の向こうには無限が広がっていたが、人々は最後に「顔」であることをやめ、社会の成員へと還ってゆく。祭りが「絆」を作るとは近年よく言われるが、実は、祭りというものは「私」と「あなた」が平和裏に出会うだけの時空間ではない。西馬音内盆踊りでは、全くつながりが持てない他者として、「顔」が顕現しているからである。夏の夜、ひととき絶対的な他者と交歓すること、そこに「絆」を超えた祭りの意味があるのかもしれない。

 

 

 

 

西馬音内盆踊り

西馬音内1

端縫いの衣装

彦三(川﨑撮影)

彦三頭巾 (2013年9月28日の「秋田けけけ祭り」にて筆者撮影)

西馬音内3

編み笠

※断りのない写真は全て、ポーラ伝統文化振興財団による撮影。


0422_001記録映画「端縫いのゆめ-西馬音内盆踊り-」(1984年制作/31分)
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※次回は9月10日、「ふるさとからくり風土記―八女福島の燈籠人形ー」をご紹介します。

2018年07月25日




映画解説(工芸部門)vol.7

「和紙のこころ」を問う

映画「細川紙の美を漉く-和紙のこころ-」

                                 中川 智絵(紙の文化博物館  学芸員)

和紙とはなんですか?

 日本古来の紙、手漉きの紙、コウゾやガンピなどの靭皮繊維を原料とする紙、近年では和紙の風合いに似せて作られた紙も見られ、それら全てが和紙と呼ばれています。
 和紙とは何か、この問いに答えることは、実は非常に難しいのです。

  「細川紙の美を漉く-和紙のこころ-」は 1982年、今から約40年前に完成した細川紙の記録映像です。

  「今の紙は見てくれのきれいな紙、力というものがなくなった」と嘆く江戸小紋の重要無形文化財技術保持者(いわゆる人間国宝)の小宮保孝氏が「本物の紙」と称賛する細川紙の職人、江原土秋氏の紙づくりの工程を通して、和紙のこころが問いかけられます。 

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(写真:紙を漉く様子)

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 細川紙の起源は江戸時代、紀州細川村(現在の和歌山県高野町)で漉かれていた「細川奉書(ほそかわほうしょ)」が江戸にほど近いこの地に伝わったものとされています。
 小学校を終えてから海軍で戦地にいた3年間をのぞき、50年を紙漉きひとすじに生きてきたという江原氏は、「関東育ちの荒々しさにたとえられる強靭さが売り物」とされる細川紙の伝統を守り、紙を漉いてきました。
 紙を作ることが趣味であり、良い紙を作ること、注文にこたえる紙ができることが生きがいと語る江原氏は、良い紙を漉くことができれば苦労は苦労でないと言い切ります。

(写真:できあがった紙を検品する様子)

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  季節は晩秋、栽培地である群馬県下仁田で、当地ではカズと呼ぶ和紙の原料コウゾを刈るところから細川紙の紙づくりは始まります。カズの黒い皮の部分を剥ぎ取るカズビキ、白くなった皮を水に晒し、完全に煮て、しかも煮過ぎないようにというカズ煮、冷たい水の中で繊維の中の不純物を取り除くチリトリ、繊維をほぐすカズタタキ、どこをとっても手を抜くことは許されない、江戸時代から変わらない工程が、丁寧に映し出されていきます。

(写真:カズビキの様子)

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(写真:チリトリの様子)

※今回の掲載写真はすべてポーラ伝統文化振興財団の撮影

 40年の時を経て、人々の暮らしも、嗜好も変化し続ける現在、和紙もまた変容を続けています。
 1978年に国指定の重要無形文化財に指定され、現在も埼玉県の秩父郡東秩父村と比企郡小川町で伝承される細川紙は、2014年にユネスコ無形文化遺産にも登録されました。和紙が脚光をあびる裏で、40年前の当時でさえ聞かれた「和紙の需要の激減とともに減量のカズの生産も減る一方」という言葉が胸に迫ります。
 細川紙のいま、そして伝えられる和紙のこころとは何か、それは使い手への問いとなって、現在の私たちへと返ってきています。

細川紙チラシ

※記録映画「細川紙の美を漉く―和紙のこころ―」(1982年制作/30分)

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2018年07月18日

(第3回)すれ違う「復興」の意思を描く 映画『願いと揺らぎ』

  • たかが祭り、されど祭り

 宮城県南三陸町波伝谷(はでんや)では「春祈祷」といって、お獅子様(おすすさま)と呼ばれる獅子頭が全戸を廻り、悪魔祓いの舞を納めます。村人が操る獅子舞を、家内安全と繁栄を願う人々が笑顔で迎え入れる―きっと幾度もこの地で繰り返されて来たのでしょう。東日本大震災の翌年2012年も、途切れることなく行事は行われました。

 災害にめげず復活した地域の伝統の祭り。傍目からみれば、震災後沿岸各地でみられた感動的な光景のひとつです。しかし、それが人々のすれ違う意思のなかで生み落とされた苦渋の「復興」だったことを、我妻和樹監督の映画『願いと揺らぎ』は描いています。ーたかが祭り、されど祭りー生活のいっさいがっさいを流された人たちにとって、伝統とは一体なんなのでしょうか。波伝谷の人と祭りの震災前後12年に渡る記録から産まれた、この希有な映画は考えさせます。
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  • 羅針盤の喪失

 映画の舞台である波伝谷は、牡蠣・ホヤ・わかめ等の養殖が盛んな地域です。東日本大震災の大津波で集落のほとんどが壊滅し16名が犠牲になりました。もとあった約80軒のうち、40軒弱が現地での生活の再建に努めているといいます。この地には「契約講」と呼ばれる伝統的な互助組織が伝わり、古い家を中心とした合議で物事を決めながら、支え合って暮らしてきました。

 しかし大津波は、まとまりの強かったこの地域にも大きな混乱をもたらします。カメラは、集落の高台移転をめぐる住民のすれ違いや、復興のために行われた共同漁業での漁師同士の軋轢を捉えます。誰もが生活の建て直しに必死なあまり、ひりひりとした感情がぶつかり合ってしまう。まるで、地域の人々の行動の拠り所となっていた羅針盤のようなものが、津波で流されたかのようでした。

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  • 足並みの揃わない「復興」

 とりわけ、波伝谷になくてはならないという「お獅子様」の復興を巡って、人々の思いは交錯します。住民がいくつかの仮設住宅団地に分散するなか、お獅子様の村廻りもかつてのように行うことはできません。ありうべき「お獅子様」の姿をめぐって、各々の理想と現実がぶつかり合います。各々の出来る限りのことはやっている―、それなのに足並みが揃わない。復興を願う気持ちは皆同じなのにも関わらずーー。

 わだかまりを抱えたまま、とうとう祭りの日を迎えます……。

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  • 深い傷を覆う

 なぜ波伝谷の人々は、それぞれの思いがすれ違う程に、真摯に「お獅子様」の復興を願ったのでしょうか。筆者にはそれが、深い傷を覆う“かさぶた”のように見えました。傷が治るまでに膿んだりするかもしれない、あとには傷痕が残るかもしれない。だけど、かつてあった地域のつながりが恢復するまで、それは不格好ながらに傷を覆っているのかもしれません。

 この映画は、何年も経てば忘れ去られてしまうような小さな出来事を丹念に追った作品です。大震災発生直前までを記録した前作『波伝谷に生きる人々』(2014年)とともに、ぜひご覧いただきたいと感じる映画です。

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【作品情報】

『願いと揺らぎ』 監督:我妻和樹 /2017年/日本/147分

製作:ピーストゥリー・プロダクツ

 

公式サイト https://negaitoyuragi.wixsite.com/peacetree

予告編 https://youtu.be/BQwE0lhv0wo

 

掲載画像(C)ピーストゥリー・プロダクツ

2018年07月11日




映画解説 vol.9

イーハトーブの身体技法

映画『みちのくの鬼たち-鬼剣舞の里-』

 

川﨑 瑞穂(神戸大学・日本学術振興会特別研究員PD)

1

鬼剣舞(おにけんばい)をご存知だろうか。鬼のような仮面を被り、躍動的に身体を上下させるこの芸能に、私は小学生時代に出会った。といっても実際の鬼剣舞ではなく、宮沢賢治の小説を題材とした映画『風の又三郎―ガラスのマント―』(1989)のワンシーンである。そこに登場するのは、賢治の詩の題材ともなっている「原体剣舞(はらたいけんばい)」であるが、今となってみれば、原体剣舞こそ私にとっての芸能の原体験といえるかもしれない。小学生の私にはそれが何であるのかがさっぱり分からなかったが、その不思議な光景がなぜか脳裏に焼き付いている。鬼剣舞とよばれるこの芸能は、岩手県の北上川流域の中部から南部に多数分布している。今回紹介する映画『みちのくの鬼たち―鬼剣舞の里―』は、奥州市旧衣川村の「川西念仏剣舞」と、北上市旧和賀町の「岩崎鬼剣舞」を中心に、芸能の歴史とその伝承者たちの活動を描き出した作品である。

北上川の支流の一つ衣川が大地を潤す、旧衣川村。桜の森の満開の下で川西念仏剣舞が演じられる場面から本作は始まる。初めて鬼剣舞に接する人は、輪になって刀をくぐりあったり、頭を小刻みに動かしたりする、その不思議な所作に注意を惹かれるかもしれない。続いて紹介される岩崎鬼剣舞では、「膳舞」(ヘギまわし)など、祝いの席で余興としても演じられたという曲芸的な舞を見ることができる。民俗芸能の不思議な所作に出会ったら、身体の動きを少し真似してみるのも面白い。町内会の夏祭りの盆踊や、学校で習ったダンスなど、今までに体験した踊りとの違いや共通点に気付くはずだ。

真似が得意なのはいつの時代も子ども達。菅江真澄という江戸時代の旅行家の日記には、子どもが鬼剣舞を真似している風景が描写されている。今日でも各地の芸能を訪れると、しばしば観に来ていた子どもが同じ動きをして遊んでいるのを見かけることがあるが、子ども達の目に写るその芸能は、おそらく小学生時代の私の目に写った鬼剣舞と同じように、不思議な魅力をたたえているのだろう。本作には、川西念仏剣舞の伝承者が、衣川村立衣里小学校の子ども達に剣舞を教えるシーンがある。どこか不思議に思いつつも笑みを浮かべて舞う子ども達の姿が印象的である。11月1日から3日に開催される、中尊寺の「秋の藤原まつり」。そこで子ども達は初めて衣装を着け、伝承者たちに新調してもらった面を被り、練習の成果を披露する。芸能の「芸」は技を身に着けること、「能」はそれを発揮することであるともいう。見よう見まねで始めた子ども達が芸を披露するようになるまでの成長過程は、芸能という言葉の意味を体現している。

なぜ、民俗芸能の所作は子ども達の心も惹きつけるのだろうか。本作に映し出される演者たちの動きを見ると、その驚くべき「身体技法」に秘密があるように思う。「dah-dah-dah-dah-dah-sko-dah-dah」という太鼓の音(口唱歌)から始まる賢治の詩「原体剣舞連」(1922)は、その驚きを新たな芸術として昇華している。太鼓の打ち方や舞の所作、それらは先人たちが何かを表現するために編み出した身体の技法であり、現代のわれわれにとって、それは外国語のような異質性と魅力を帯びている。みちのくの大地に育まれてきた身体技法の結晶、それが鬼剣舞であるといえるかもしれない。



 

 付記:なお、本稿のいくつかの論点については、地芝居ポータル代表の蒲池卓巳氏による筆者へのインタビュー記事「民俗芸能における「余興」とは?」『(公社)全日本郷土芸能協会 会報』(第92号)に詳しくまとめられている。

 

岩崎鬼剣舞「一人加護」(ひとりかご)

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川西念仏剣舞「三人偉者」(さんにんいかもの)

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岩崎鬼剣舞「膳舞」(別名、ヘギまわし)

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川西念仏剣舞

※写真は、すべてポーラ伝統文化振興財団による撮影


0299_001記録映画「みちのくの鬼たち-鬼剣舞の里-」(1983年制作/34分)
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※次回は8月10日、「端縫いのゆめ―西馬音内盆踊り―」をご紹介します。

2018年06月29日

未曾有の大災害となった東日本大震災から7年。
近年、被災各地の伝統文化を捉えたドキュメンタリー映画が次々と公開されています。
津波常襲地域である三陸で、繰り返す津波災害を乗り越え伝えられて来た文化には、
困難を生き抜く先人の知恵が込められています。

映画監督が、映画から観た震災、そして伝統文化の底力を紹介します。(全3回)

 

(第2回)生まれ清まりの物語を生きた神楽 映画『海の産屋 雄勝法印神楽』

 

■気まぐれな海
命を育み、時に奪う海。海辺に暮らしてきた人たちは、その両極の姿に感謝と畏怖の念を覚えてきました。海辺の人々が抱く海の精霊や神々の姿は、ままならない自然そのもの。生命力と慈愛に溢れ、時に凶暴な牙を剥く、“気まぐれな”存在であるようです。

その姿は、映画でもたびたび魅惑的なキャラクターとして描かれています。宮崎駿監督のアニメ『崖の上のポニョ』では、純粋で無垢な海の精霊のような女の子が海嘯とともに現れて町を覆うと、そこに生命力溢れる不思議な世界が現れます。現在公開中の深田晃司監督の『海を駆ける』では、2004年に大津波に襲われたインドネシアのバンダ・アチェという町を舞台に、時に残酷な海の精霊のような男が不意に訪れ、若者たちの心にさざ波を起こすと、また不意に海へと戻っていきます。いずれの場合も、海の狂気の側面だけでなく、その訪れのあと、生まれ清まった新しい世界や感覚が生み出されていることが興味深く感じます。

宮城県石巻市雄勝町の「雄勝法印神楽」は、そのような海の神による生まれ清まりの物語を伝えてきたばかりでなく、東日本大震災の大惨事を経て、まさにその物語を生きた、すさまじい神楽でした。

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■震災翌年2012年の記録
今回紹介する『海の産屋 雄勝法印神楽』は、「雄勝法印神楽」を取材した北村皆雄・戸谷健吾監督によるドキュメンタリー映画。東日本大震災の翌年、2012年に撮影された記録です。神楽が伝わる立浜(たちはま)地区は、大津波により46軒中1戸だけを残して被災。生業の礎であるホタテや牡蠣の養殖棚、道具、船もいっさい流されました。映画は、この何もない殺伐とした光景を「天も地も定まらず、光も闇もわからない混沌とした世界、まるで国生み神話の世界のようだった。」と語ります。そんななか、地区の男たちが祭りと神楽の復興に奔走します。長年神楽を伝え来た担い手であり、この地での再起を決意した12人の漁師たちでした。

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■再生の祭り
神楽の復興のため、男たちは流された面や衣装、道具を揃えます。全国からの支援も寄せられました。漁師の仕事も再開します。ある漁師は「海をいっさい、いっさい恨んでない」と言い放ち、別の漁師は「津波のあとは不思議と漁が多い」といって、以前のように海にでます。

祭りの当日には、他地区に避難していた人々が帰って来て再会を喜びあいます。海辺の荒地に2年ぶりに神楽の音色が響き渡り、地区の再生を予感させます。

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■「産屋」から生まれる未来

クライマックスは「産屋」という、記紀神話に由来する演目です。海の神の娘である豊玉姫が山幸彦との子を身ごもり、出産のため産屋に入ります。「中を覗いてはいけない」という約束を破って、山幸彦が覗いてしまうと、そこには美しい姫とは似ても似つかぬ龍蛇の姿が。正体を見られた豊玉姫は、生んだばかりの子を置いて、泣く泣く姿を消します。別れがなんとも胸に迫る場面です。その時、この1年間に地区で生まれた赤ん坊が、豊玉姫に抱かれて産屋から出てくる役を務めると、丈夫に育つといわれています。地区の未来を祝福する生育儀礼にもなっているのです。この年、震災後初めて生まれた赤ん坊が、その大役を務め上げました。観客の暖かい歓声と拍手が鳴り響きます。

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■神話と異なる結末
「産屋」はその後、神話とは異なる結末を辿ります。正体を見られた豊玉姫が怒りの形相の龍神となって舞い戻り、山幸彦との壮絶な大立ち回りを演じるのです。その狂気の姿は、荒れ狂う海を写しとったもののようです。豊穣の源とも、悲劇の源ともなる海。漁師たちの生活感情に根ざした、その“気まぐれな”姿が神楽に投影されているのかもしれません。海との抜き差しならぬ交流を生きて来た、漁師の神楽を観た思いがしました。

 

【雄勝法印神楽(おがつほういんかぐら)】

宮城県石巻市雄勝町に伝わる民俗芸能。国指定重要無形民俗文化財である。大乗神楽、山伏神楽などとも呼ばれる東北一帯に伝承される神楽の一つ。雄勝町内の各神社の春・秋の祭で奉納される。室町時代(約600年前)に、羽黒派の修験者(地元では”法印さん”と呼ばれた)によりもたらされ、伝承されてきた。明治の神仏分離、神道化政策により修験道が禁止されると、一般の人々が「神楽団」(現在は保存会)を組織し、担うようになった。その時に神楽の内容も、「日本書紀」や「古事記」など国家神道を支える神話のストーリーに塗り替えられたが、太鼓や笛のリズム、力強い足踏みや、袖の下で結ぶ秘密の“印”などに、修験道の要素が色濃く残されている。

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【作品情報】

『海の産屋 雄勝法印神楽』 監督:北村皆雄・戸谷健吾/2018年(2012年撮影)/日本/77分

製作:ヴィジュアルフォークロア/ネオンテトラ

2018年9月1日(土)伊那旭座(長野)にて特別上映!公式サイトhttps://www.uminoubuya.com/

予告編 https://youtu.be/vW5fzMCUcXU

 

遠藤 協(えんどう・かのう)

映画監督・映画プロデューサー 1980年生まれ。慶應義塾大学在学中に民俗学と文化人類学を学ぶ。映画美学校ドキュメンタリーコース修了後、数多くのドキュメンタリー映画やテレビ番組、記録映像等の制作に携わる。とくに日本各地の民俗文化や芸能のドキュメント制作に力を入れている。2017年に『廻り神楽』を公開。

 

 

2018年06月26日




映画解説(工芸部門)vol.6

着物は命を守るもの

映画『彩なす首里の織物—宮平初子—』

  大友 真希(染織文化研究家)
花織を織る宮平初子

沖縄は染織の宝庫である。染織品としての素材、色彩、文様などの多様さがその第一の理由であるが、同じく沖縄は染織の「つくり手」の宝庫であることも間違いない。そのつくり手の一人が、一度は途絶えた首里の織物を蘇らせ、その技をいまに伝える染織家・宮平初子(1922−)である。本映画『彩なす首里の織物—宮平初子—』は、宮平による手縞(てじま)と花織(はなおり)の制作工程の記録であるとともに、宮平が着物へ込める「思い」についても克明に伝えている。

 

かつて琉球王国の都であった首里(現 那覇市)は、王国の消滅から約140年が経ったいまも、どことなく華やかさが漂う土地である。これまで幾度か首里城やその周辺を訪れたことがあるが、王族や士族が暮らしていた頃の悠久の時間が流れているような、そんな印象が残っている。



首里に生まれ育った宮平は、3、4歳の頃から祖父の御用に連れだって王族や士族の邸宅・御殿(ウドゥン)や殿内(トゥンチ)によく出入りしていた。邸宅では、家に伝わるさまざまな着物を見ることができたという。それらは身分の高い人びとの着物であり、織物の種類や染料についても家の大人たちが細かく聞かせてくれたという。この経験は、宮平の「首里の織物」の原体験であり、この頃に見聞きした数々の着物が、宮平にとっての「伝統」という基礎をつくったといえる。 



琉球城下では、王族、士族、庶民といった身分や階級によって身につける装束に細かい決まりがあった。素材や色の違いとともに、身分が高い人ほど大きな柄を着て、階級が低くなるにつれて着物の柄は細かくなっていた。絣柄の大きさは「玉」という単位で表わされ、布の巾に「一玉」や「二玉」の着物は王家専用であり、「六玉」までは士族が着ることを許されていた。柄は大きくなるほどに人の目をひきつける。柄の大きさが階級を顕示する役割を担っていた。また、柄をまとうことは魔や穢れ(けがれ)から身を守ることにも通じている。柄のモチーフとなる身の周りの自然、植物、動物、生活の道具などがもつ霊力が着物に宿され、身につける人間の身を守るのだ。

 

「着物は命を守るもの」と宮平は言う。そして、「着物は自分のカラダと一緒」であるとも加える。着物を、身につける人物もしくはその人の身体と同一視する心性は古くからあり、「形見」はそのひとつの表れだといえる。亡くなった祖母や母の着物を形見に受け継いだとき、その着物を手にすれば、祖母や母を思い起こさずにはいられない。またいつしか、その着物自体が祖母、母の存在として感じることもあるだろう。

 

宮平は織りあがった布に対して手を合わせ拝む。この姿は、首里の伝統という霊力を織物に込めているように見える。沖縄では、布が仕上がることを「布が生まれる」というが、宮平が生んだ数々の織物は、着物となってそれをまとう人びとの命を守り続けている。

 

 

花織を織る宮平初子

絹紺地三玉手縞沖縄衣裳(全体)

≪絹紺地三玉手縞沖縄衣裳≫(全体)
2002年 ポーラ伝統文化振興財団蔵

絹紺地三玉手縞沖縄衣裳(部分)

≪絹紺地三玉手縞沖縄衣裳≫(部分)

完成した衣裳を前に「手縞織唄」を歌う宮平と工房の女性たち

完成した衣裳を前に「手縞織唄」を歌う
宮平と工房の女性たち


※今回掲載した写真は、ポーラ伝統文化振興財団による撮影


0269_001記録映画「彩なす首里の織物-宮平初子-」(1995年制作/34分)
映画紹介はこちら
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※今回をもちまして、大友真希先生による染織関係の映画解説は終了になります。
  次回の投稿は7月25日、6月の伝統文化通信にもご寄稿いただいた、
  中川智絵先生(紙の文化博物館学芸員)に、映画「細川紙の美を漉く-和紙の
  こころ-」の見所を解説していただきます。

※大友先生(染織文化研究家)の映画解説バックナンバーはこちら
映画解説(工芸部門)vol.5 白線のコスモス ― 糸目にみる秩序の美 映画『山田貢の友禅-凪-』 

映画解説(工芸部門)vol.4 紬織の風合いとはなにか 映画『紬に生きる-宗廣力三-』
映画解説(工芸部門)vol.3 絹帯をめぐる音の風景 映画『筬打ちに生きる-小川善三郎・献上博多織』
映画解説(工芸部門)vol.2 「流れの美」を描いた染色家 映画『芹沢銈介の美の世界』
映画解説(工芸部門)vol.1 わざと心を受け継ぐ織物 映画『芭蕉布を織る女たち』

※中川智絵先生(紙の文化博物館学芸員)の伝統文化通信はこちら
【伝統文化通信Vol.13 「越前和紙の里の神まつり」 紙の文化博物館 中川智絵先生】

2018年06月15日

 

 

未曾有の大災害となった東日本大震災から7年。近年、被災各地の伝統文化を捉えたドキュメンタリー映画が次々と公開されています。津波常襲地域である三陸で、繰り返す津波災害を乗り越え伝えられて来た文化には、困難を生き抜く先人の知恵が込められています。

映画監督が、映画から観た震災、そして伝統文化の底力を紹介します。(全3回)

 

(第1回)大津波を生き抜いた黒森神楽 映画『廻り神楽』

★申し訳ございませんが、写真は事情により、2018年6月18日に掲載いたします。

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■三陸を旅する黒森神楽

 岩手県の沿岸部を、冬のあいだ各地を移動しながら祈りの神楽を舞う人たちがいます。岩手県宮古市の黒森神社に伝わる黒森神楽です。「権現様」と呼ばれる獅子頭を携えて各地を巡り、海や山などの自然の神々の化身となって舞い踊ります。人々の願いを受け止めながら340年以上続けられてきました。三陸沿岸は数十年に一度、大津波に襲われています。この100年あまりの間にも4度の大きな津波が襲っています。黒森神楽は、こうした津波を乗り越えながら続けられてきたのです。
(写真1:黒森神楽の権現様)

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■巨大津波を乗り越えて

 東日本大震災の巨大津波により、黒森神楽が訪れる沿岸部の多くは、大きな被害を受けました。神楽衆も、長年神楽を受け入れてきた海辺の人々も、それぞれに深い傷を負いました。

 大津波から6年となる2017年初春、筆者は現代も沿岸部を廻り続けている黒森神楽の足跡を追って、ドキュメンタリー映画『廻り神楽』(遠藤協・大澤未来監督)をつくりました。復興工事が進む被災地で、人々が神楽に託すさまざまな願いを垣間みました。津波災害が宿命ともいわれる“津波常襲地域”三陸で、なぜこのような神楽が絶えることなく伝えられてきたのでしょう?
(写真2:海辺を巡る神楽衆)

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■震災3ヶ月後に活動を再開

 黒森神楽は地震発生3ヶ月後の2011年6月に、早くも活動を再開しました。避難所を訪問して慰問の神楽を披露したのです。自粛ムードが世の中を覆う中、人々を少しでも元気づけたいとの思いだったということです。賑やかな神楽の舞と音に、避難所の人々の表情がぱっと明るくなるのがわかったといいます。

 黒森神楽の大きな特徴は、「神楽念仏」といって、亡くなった人の魂を弔う舞を行うことです。神仏混淆の修験者の流れを汲むという黒森神楽ならではの舞です。黒森神楽は、訪れた各地の浜辺で「神楽念仏」を唱えたそうです。それは、村々に暮らしていた人たち、神楽を心待ちにしていた人たち、突然の別れをしたすべての人たちの冥福を願う祈りだったことでしょう。
(写真3:神楽念仏)

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■6年後の役割

 それから6年。復興工事の進む沿岸各地では、人々の再出発を祝福する黒森神楽の姿がみられるようになりました。高台移転により新築した家では「柱固め」の舞が行われます。権現様が家の柱を噛む仕草をして祓い清め、家内繁栄を祈るのです。ある港では漁師の依頼で「船祝い(ふないわい)」が行われました。漁船の新調に伴って、権現様が船の隅々を噛み、海上安全と大漁祈願を祈るのです。

 この2年程は、とりわけ「柱固め」の依頼が急増したといいます。新たな住まいでの門出に際して、神楽に背中を押してもらう事は、海辺の人たちにとって、とても心強いものであるに違いありません。
(写真4:船祝い)
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■喜びと悲しみに寄り添う

 悲劇と再生に寄り添ってきた黒森神楽。東日本大震災だけでなく、これまでの大津波の際にも、きっと人々のよろこびと悲しみに伴走してきたことでしょう。だからこそ、この地域で340年以上も続いて来たのかもしれません。
(写真5:山の神舞)

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【黒森神楽】

正月になると黒森神社の神霊を移した「権現様」(獅子頭)を携えて、陸中沿岸の集落を廻り、家々の庭先で権現舞を舞って悪魔払いや火伏せの祈祷を行う。夜は宿となった民家の座敷に神楽幕を張り夜神楽を演じて、祈祷の舞によって人々を楽しませる。340年以上、三陸の南北150キロメートルにおよぶ地域を巡り続けてきた。国指定重要無形民俗文化財。

 

【作品情報】(チラシ画像)

『廻り神楽』 監督:遠藤協・大澤未来/2017年/日本/94分

製作:ヴィジュアルフォークロア

キネマ旬報2017年文化映画ベスト・テン作品

 

8/4(土)〜6(月)鹿児島ガーデンズシネマにて【アンコール上映】

9/1(土)伊那旭座(長野県)にて特別上映

 

公式サイトhttps://www.mawarikagura.com/

予告編https://youtu.be/pC77XwytRpg

 

遠藤 協(えんどう・かのう)

映画監督・映画プロデューサー 1980年生まれ。慶應義塾大学在学中に民俗学と文化人類学を学ぶ。映画美学校ドキュメンタリーコース修了後、数多くのドキュメンタリー映画やテレビ番組、記録映像等の制作に携わる。とくに日本各地の民俗文化や芸能のドキュメント制作に力を入れている。2017年に『廻り神楽』を公開。

2018年06月11日


映画解説 vol.8

偏りと出会いから生まれる世界

映画『若衆たちの心意気―烏山の山あげ祭り―』

 

川﨑 瑞穂(神戸大学・日本学術振興会特別研究員PD)

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全国津々浦々、地域を彩る祭礼がある。源を同じくする祭礼であっても、どれ一つとして同じものはなく、よく見れば趣向の違いがたくさん見つかるはずだ。例えば栃木県那須烏山市の「山あげ祭」は、その余興の趣向が見事なことで知られている。道路に100メートルにわたる遠近感たっぷりの舞台空間が出現し、その圧倒的な野外舞台で演じられる所作狂言(歌舞伎)では、煙の中から役者が出てきたり、仕掛けで桜が咲いたり、さらには火花まで出して観る者を楽しませる。このような趣向はどのように生まれるのだろうか。映画『若衆たちの心意気―烏山の山あげ祭り―』を通して、祭礼の趣向の発生に立ち会ってみよう。

この祭礼は、六つの町が輪番制により毎年行うものであり、鍛冶町が当番であった1983年を記録したのが本作である。徳利(とっくり)を運ぶシーンが美しく描写される冒頭の会議では、「木頭」(きがしら)と「副木頭」という2人の祭礼の役が決まる。両者は、祭礼の裏方である若衆たちを指揮する重要な役である。山あげ祭は、この若衆たちが、竹の網代(あじろ)に和紙を貼った巨大な「山」を立てることからその名が来ている。永禄3年(1560)、疫病を除けるため牛頭天王(ごずてんのう)を祀り、その余興で相撲、神楽、獅子舞を上演するようになったのが祭礼のはじまりといわれているが、「山」や「所作狂言」(歌舞伎)が採り入れられたのは江戸時代である。山の型(かた)は昔からそれほど変わりないが、毎回仕掛けなどの趣向を工夫しており、木頭は、それぞれ仕事をしながら、どのような山にするのかを考えるのだという。ここでは木頭の文具店と呉服屋をはじめ、生業の描写が多く、山作りにかかせない紙漉きなどをみることもでき、昭和末期の町の雰囲気が伝わってくる。


蔵から6年前の山をだすシーン。古い山を前に、皆でアイディアを出し合い、趣向を考える。これまでの山は絵具で山水(さんすい)を描いたものであったが、この年は色つき和紙の貼り絵にすることとなった。「他にはないものにしたい」というこの小さな偏向こそが、後に祭礼を変化させていき、各地で様々な趣向を花開かせていく種となるのである。映画では、貼り絵の山は初めて だからと、応援をよんで町ぐるみで準備している。決して表には出ない誰かの小さな偏向が、様々な出会いを生み出していく。それが祭礼、さらには文化というものにほかならない。

 

 

7月第4土曜日を含む金・土・日曜日、当番町の屋台は次々に町を練り歩く。新たな趣向を他の地域に見せることで、その趣向が新たな趣向を生んでいく。その舞台装置を載せて地車(じんぐるま)を走らせるのは、150人にものぼる若衆たちである。大急ぎで山を造り、終わるとすぐに解体して次の場所に行く彼らは、裏方とはいえ一人一人創意を持った人間であり、彼らがいかに重要であるかを、本作は教えてくれる。同じように伝承していても、一人一人の僅かな偏(かたよ)りが偏りを生み、祭礼は刻々と変化していく。多くの創意が離合集散し、時代の趣向が積み重なって形成されたのが、各地の祭礼であるといってもよい。毎年様々な祭礼に足を運ぶのも楽しいが、毎年同じ祭礼に参加し、僅かな偏りに注目していくのもまた、通な祭礼の楽しみ方である。 



 

 

 

山あげ祭の舞台

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所作狂言(歌舞伎)

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貼り絵された山

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「山」をあげる若衆

※写真は、すべてポーラ伝統文化振興財団による撮影


0192_001記録映画「若衆たちの心意気-烏山の山あげ祭り-」(1983年制作/34分)
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※次回は7月10日、「みちのくの鬼たち-鬼剣舞の里-」をご紹介します。

 

2018年06月04日

 

越前和紙の里である越前市五箇地区は、福井県の北部、緑豊かな山々に囲まれた山間の地に位置します。五箇は不老(おいず)・大滝(おおたき)・岩本(いわもと)・新在家(しんざいけ)・定友(さだとも)の五つの集落から成り、古くより紙漉きを生業として暮らしてきました。

大瀧神社

越前和紙の発祥は定かではありませんが、五箇を流れる岡太川(おかもとがわ)の上流から女性が現れて里人に紙漉きの技を伝えたという伝承があり、これは五箇の地に紙漉きの技術を持った渡来人が移り住んだことを示唆すると考えられています。女性は紙祖の女神「川上御前」として岡太神社(おかもとじんじゃ)に祀られ、今も里人の崇敬を集めています。
この五箇の地に今年、1300年の大祭を迎える神社があります。泰澄大師の創建と伝えられ、五箇地区の紙漉き業者から紙祖の神として信仰を集める女神をともに祀る大瀧神社(おおおたきじんじゃ)です。【大瀧神社】

里宮鳥居

祭りは例年5月3日から5日にかけて、地元の人たちの手で大切に執り行われています。大祭の年である今年は5月2日から5日、準備期間を含めると山の雪が解けた頃から、里は神迎えのため静かな熱気に包まれていました。【里宮鳥居】

  奥の院

そして5月2日、ふれ太鼓が里に響き、山中の奥の院から神々を里宮に向える「お下り(おおり)」の神事で祭りが始まります。お峯天狗と呼ばれる天狗面の先払いで神社を出発し、駕与丁番(かよちょうばん)と白装束姿の「白丁(はくちょう)」に守られた大瀧神社、岡太神社、八照宮の三基の神輿が九十九折の山道を奥の院に向い、里人から「お峯(おみね)」と呼ばれる大徳山山腹の奥の院三殿から里宮へ、神様をお迎えするのです。【奥の院】

  法華八講  3日には神仏習合の古式を伝える「法華八講(ほっけはっこう)、これは法華経八巻を八座に分け、問答することで仏教の心理を明らかにするという儀式法要で、岡太神社・大瀧神社では大祭の年のみ行われます。そして「湯立神事(ゆたてしんじ)」と続き、夜には奉納ライブが行われます。【法華八講】
   神輿渡御①

4日の例大祭では、紙祖の女神「川上御前」が里人に紙漉きの技を伝授する様が地元の小学生による無言の紙能舞で演じられ、さらに里人が伝授された技を演じる、これも小学生による紙神楽が奉じられます。

【神輿渡御】
  最終日である5月5日には五箇地区を神輿が渡り、再びのふれ太鼓の後、神様を奥の院にお送りする「お上り(おあがり)」の神事、里宮へと戻った里人の手締めで4日間にわたる大祭は終了するのです。
 

チョーコ、チョーコ、チョーコーとーえー、

神と別れりゃ悲してならぬ

紙の神様 川上御前

今も栄える神の里

 

奥の院にご神体を納めた空の神輿を担ぎ山を下りる人々が唱和する「松坂」という唄です。お峯への参道整備や神社の清掃、幟の準備などすべて里人の手で営まれる昔ながらの紙の里の神まつりが、これからも変わらず続けられることを願っています。

中川智絵
紙の文化博物館 学芸員

 

2018年05月25日


映画解説(工芸部門)vol.5

白線のコスモス — 糸目にみる秩序の美

映画『山田貢の友禅—凪—』

  大友 真希(染織文化研究家)
①≪糯糊点連線糸目友禅着物「凪」≫(全体)

友禅染は、分業制が主流にもかかわらず、なぜ全工程を一人で行うのかと尋ねられ、「自分の好きな線を引くため」と山田貢は答えている。

友禅の人間国宝・山田貢(やまだみつぎ・1912−2002)は、岐阜県岐阜市に生まれ、15歳のときに友禅の道へ入った。叔父の紹介により、名古屋松坂屋で友禅制作をする中村勝馬(1894−1982)の下に付き、友禅染や蝋染(ろうぞめ)を学んでいった。近代化が急速に進むなか、中村は友禅の創始期にみられた「自由で豊かな精神」に真意を求め、単なる商業的物品ではなく「美術品」としての友禅に理想を追うようになる。中村から強く影響を受けた山田は、昭和4年(1929)中村とともに上京し、昭和26年(1951)の独立後、一友禅作家として、作品に「自分独自の雰囲気」を表現するようになっていった。



映画『山田貢の友禅—凪—』は、山田が東京世田谷の自宅にて、着物作品「凪(なぎ)」を制作する過程が記録されている。友禅染は、まず、糯粉(もちこ)と糠(ぬか)を原料とする防染糊——糯糊(もちのり)を使って布に模様を描く。糊の乾燥後、その上から染料で色を挿す。布に染料が定着した後、糊を洗い流すと、糊を置いた部分は染まらず、白く地色が残ることで模様が浮き出る。友禅は、糊の質と糊置きの仕事が仕上がりを決めるといっても過言ではない。図案の良し悪しは言うまでもないが、良い図案でも、糊を置いた「糸目(いとめ)」が不味ければ、友禅としての価値は下がる。

 



網干(あぼし)の風景を描いた作品「凪」では、藍色との対比でくっきり浮かぶ交差した無数の白線が、画面に清々しい印象を与えている。山田は制作のはじめに実寸の下絵をつくる。網目は定規を置いて鉛筆で線を引き、その上からサインペンを使ってフリーハンドでなぞる。網の結び目を表現するように、強弱をつけながら一本一本綿密に線を引く。続いて下絵の上に布を重ね、水溶性の青花(あおばな)をつけた細筆で、再び同じ線を写し描く。その後、ひと月以上かけて、すべての線に糸目糊を置いていく。糸目糊で引かれた線は、文字通り、糸のように細い。

 

 

 


下絵づくりから糊置きまでに、山田は5回線を引く。作品の出来を左右するのは糊置きの線だけとも言える。しかし、山田はそこに至るまでの4回、すべての線を丹念に引く。何度も引くことで、自らの手に「線」の感覚を染み込ませていくように。この仕事を経ることで、山田は友禅で重要な糊置きにおいて、自分のイメージ通りの自由な線を引くことができたのだろう。「自由で豊かな」糸目を出すために、その線を繰り返し体に刻む。体だけではない。山田の丁寧な仕事を見ていると、その精神にも、幾重にも重なった美しい糸目が引かれているように思えた。

 

 

 

 

 

≪ 糯糊点連線糸目友禅着物「凪」≫(全体)
1995年 ポーラ伝統文化振興財団蔵

②≪糯糊点連線糸目友禅着物「凪」≫(糸目部分)

≪ 糯糊点連線糸目友禅着物「凪」≫
(糸目部分)

③原寸下絵を描く山田貢

原寸下絵を描く山田貢

④糸目糊置き

糸目糊置き

※今回掲載した写真は、ポーラ伝統文化振興財団による撮影


0193_001記録映画「山田貢の友禅-凪-」(1995年制作/34分)
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※次回は6月26日、「彩なす首里の織物-宮平初子-」をご紹介します。

2018年05月20日

宮崎は神楽の宝庫である。日本の神楽を代表する高千穂や椎葉といったところでは今も頑なに女人禁制を守るところが多い。修験系の神楽において、女人禁制はつきものなのだが、九州全域に目を移すと、長崎県対馬の命婦舞、五島列島の市舞などは、巫女神楽が主流となっている。 それでは、宮崎の神楽に巫女神楽がなかったのかと言えば、そうではない。近世に巫女舞が舞われた記録は祓川の神舞(高原町)にも認めることができる。
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今ではどこでも伝統芸能の後継者不足に悩まされている。山間へき地は過疎化に伴う人口減少で舞手そのものがいなくなっているのが問題なのだが、都市部においてはまた、別の要因が存在している。それは、旧集落と振興住宅地との関係である。宮崎市内では30近い地区で、春神楽が伝承され、山間部に比して勝るとも劣らない内容豊富な舞が伝承されている。ところが、見学者も少なければ伝承者も厳しいのが実状だ。その理由を探って調査したところ、地元の祭りに参拝するのではなく、イベントの神楽に足を向ける方が多いことがわかった。理由は、「よそものが、神社の氏子さんのお祭りに入るのは遠慮したほうが良い」「イベントなら気兼ねなく楽しむことができる」というものだった。神楽伝承の地元からは「近くに住んでいても神社に参りにきてくれない」「新たな転入者は神楽を好きな人がすくない」という声があがり、両者の意思疎通が残念なことになされていないことが判明した。
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つい先日訪れた、長崎県五島市福江の住吉神社の神楽で、興味深い事例を見つけた。なんと、ほとんどが子供たちだけで、荒平・獅子舞など様々な舞が男女の別なく立派に舞われて伝承されているのだ。しかも、笛や太鼓などの楽器も4歳から小学生が主体で、中高生も混じっている。子供たちに神楽を教えているのは、宮司の奥様やご家族の方々。小学校にお願いして、氏子圏外からも希望者を募っているという。宮司曰く「神楽はアマテラスの御代より女性が舞っていたもの。女人禁制などあってはならない」と・・・。

つい最近、大相撲で女性が土俵に上がることの是非が取り沙汰されたばかりだが、日本の伝統とされる「女人禁制」について、どこまで正確な情報を国民は有しているのだろうか?

女人禁制を解けば、神楽の伝承者は必然的に倍増するのに・・・

 離島での神楽の伝承は別の意味でも深刻だ。それは、大学進学・就職で若者のほとんどが島離れを余儀なくされるからだ。そこで生まれた知恵が、氏子圏内外を問わず、幼児から小中高校生までを集め、子供たち主体の神楽を作り上げたことだ。

子供たちの世界に、地元民・転入者の区別はあまり存在しない。幼稚園・小学校などの交友関係で文化伝承の輪を自然と広げていくことが可能となる。

 実は、昨年9月、緊迫する半島情勢の最中、韓国から海の神を祭るイベントに招聘され、同神社の最年少4歳の女児を含む巫女さん4名を引率することができた。常に新しい仲間を求めて、神楽を舞い続ける島の女性たちの芯の強さを垣間見る思いがした。

永松 敦

1958年 大阪府生まれ

総合研究大学院大学文化科学研究科博士後期課程修了
博士(学術)
専門:狩猟民俗・民俗芸能 在来野菜
現在、宮崎公立大学人文学部教授(民俗学)

最近は民俗知を活かした地域創生を実践しており、宮崎市の地域のお宝発掘・発展・発信事業において、大宮地域自治区の景清伝説・神楽・在来野菜・自然などを活用して地域づくりに従事している。

著書 

『狩猟民俗研究―近世猟師の実像と伝承―』(平成15年)法蔵館
『九州の民俗芸能(海と山と里と交流と展開の諸相)』(平成21年)鉱脈社     ほか

 

2018年05月15日

画像1:修復用に製作した竹釘

仏像は、仏教が日本に伝来した6世紀より、国内で連綿と造られ続けてきた信仰対象像です。日本の仏像は、豊富にあった樹木を素材とした木彫仏が圧倒的に多く、古いものは修理を重ねながら、千年以上の月日を経て現在まで大切に守られてきました。また、明治時代以降になると、仏像は文化財としての側面も併せ持つようになり、昨今、仏像修理を専門とする修復家たちには、伝統的な技法と文化財の修復理念を併せた処置を施すことが求められています。
【写真1:仏像修復用に製作した竹釘】

画像2:江戸時代の仏像の頭部を解体した様子

仏像を造る技術も、伝統的な技法が長く受け継がれてきました。解体修理をすると、その技術を細かい部分でも感じることがあります。その一例をご紹介します。

木を寄せ合わせて造られた仏像は、接合に鎹や釘を使用します。釘は、鉄製や銅製の他に竹製のものが使われることもあります。修復時にも竹釘を新調して使用することがあるため、修復家は自身でこれを製作します。この竹釘ですが、先端に向けてただ細く尖らせるだけではなく、一つの面に表皮の部分を残すひと工夫をしておきます。表皮の部分は堅いので、残しておくことによって折れにくくなるのです。
【写真2:江戸時代の仏像を解体した様子(頭部)】

画像3:拡大(竹釘を使用している) この表皮を残した竹釘ですが、仏像を解体すると中から同じように表皮を残した同じ形状の昔の竹釘が出てきます。様々な時代の仏像から、同形状の竹釘が出てくるのです。古くから、仏師や修理に携わった人々は皆同じ技法で竹釘を作っていることがわかります。
【写真3:拡大(竹釘が3本使われている)】

画像4:修復の様子 些細な事例ではありますが、修復作業を通じて過去との繋がりを感じることもあるのです。仏像修復家は、大切に残されてきた仏像を、技術も含めて現在から未来へと繋げるために修理に勤しみながら日々技術向上にも励んでおります。
【写真4:修復の様子】

小室 綾

京都造形芸術大学歴史遺産学科文化財科学・保存修復コース卒業。
卒業後、吉備文化財修復所に修復所員として勤務。
現在は、仏像修復家として寺院など現地での修理を中心に活動している。

2018年05月02日

映画解説(工芸部門)vol.4

紬織の風合いとはなにか

『紬に生きる-宗廣力三-』

  大友 真希(染織文化研究家)
①

 

映画『紬に生きる-宗廣力三-』では、「紬縞織・絣織」(つむぎしまおり・かすりおり)の人間国宝・宗廣力三(むねひろりきぞう・1914-1989)が終生にわたり紬に込めた、厳しくも温かい“心”が描かれている。全編を通じて「風合い」という言葉が幾度も語られるが、この「風合い」を手がかりに宗廣の言葉や作品を見ていくと、宗廣が求めた紬織とは一体何だったのかがわかるのではないか。

 

宗廣作品は、意匠のほとんどが縞・格子柄と幾何学柄で構成されている。縞・格子は紬織の基本であるが、そこに経緯絣(たてよこがすり)で丸文、菱文、立涌文(たてわくもん)、竹文などの文様を組み合わせて緻密な意匠を創り出している。文様の多くは自身が考案した染色方法“どぼんこ染”で染められたもので、文様の色・形に濃淡の“ぼかし”が入ることで、多層的な奥行を感じさせる。

 

ところで、紬といえば結城(茨城県)や信州(長野県)などが産地として広く知られるが、昭和初期まで全国各地——養蚕の盛んな地域では、農家の女性たちが家族や自分の普段着用につくっていた織物であった。蚕の飼育と繭の生産に際し、絹(生糸)として売り物にならない屑繭から真綿(まわた)をつくり、それを指で紡ぎ糸にして着物を織った。古くから、絹­の「美しい光沢」と「ひんやりとして滑らかな肌触り」は支配階級の特権であったが、「つつましい艶」と「温かみのある肌触り」という、別の絹の風合いを庶民は知っていたのである。

 

宗廣は、庶民が感じていた紬の風合いを自身の作品に求めていたのではないか。長年思いを馳せていたエリ蚕紬(えりさんつむぎ)に取り組む場面では、「紬は毛羽が出やすい。二、三年してくると渋くなる。エリ蚕の織りあがったものが既に二、三年した紬の良さを出している」と語る。つまり、紬は、数年経った(身につけた)後の方が本来の「美しさ」や「温かみ」が出ると考えていたのだろう。

 

宗廣の故郷・岐阜県郡上八幡(ぐじょうはちまん)でも、かつて農村の衣生活を支える織物として紬が織られていた。それは、山々の草木を染料に糸を染め、地機(じばた)で織った無地か単純な縞柄であり、「現代の私たち」が見れば「ざっくりとした素朴な風合い」だと感じるに違いない。

 

宗廣が郡上で紬を始めたころ、土地の老女が「色は冴えて、堅牢で、やわらかくて、こし強く、深みがありて、あたたかく」と紬を表現したという。近頃、宗廣作品《茜染エリ蚕紬やたら絣着物》を間近で見させていただいたが、制作から三十年を経たいまも、茜で染めた深紅色は「冴えて」いた。エリ蚕紬の「こしのある柔らかさ」と「温かみ」にも触れた。目の前の紬は、郡上の人びとが身につけていたかつての紬とは違う。しかし、まさしく、郡上の老女が宗廣に語った「紬の風合い」が、そこにあるのをはっきりと感じたのである。

図案を描く宗廣力三 1988年

②

《丸に華文茜どぼんこ染吉野格子絣着物》(全体)
1988年 ポーラ伝統文化振興財団蔵

③

《丸に華文茜どぼんこ染吉野格子絣着物》(部分)

④1

《茜染エリ蚕紬やたら絣着物》
1988年 ポーラ伝統文化振興財団蔵

※今回掲載した写真は、ポーラ伝統文化振興財団による撮影


0168_001記録映画「紬に生きる-宗廣力三-」(1988年制作/32分)
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※次回は5月25日、「山田貢の友禅-凪-」をご紹介します。

2018年04月16日

古代東アジアの儀礼音楽について、国家制度の視点から研究しています。中国の儀礼音楽は日本や朝鮮半島にも大きな影響を与えましたが、その歴史的背景を知ることは、わたしたちの日本理解を助けるものにもなるでしょう。
こうした儀礼音楽の研究をする前は、東アジアの軍事・財政史に興味がありました。そうした軍事、財政をはじめとする国家制度の視点から、東アジアの音楽史を新たに読み解いてみようというのが、私の研究スタンスです。

上記の研究スタンスは、音楽を芸術の視点のみからとらえた場合、邪道と映るかも知れません。しかし、新しい研究は、それまで人が忌避して手をつけてこなかったところから始まります。日本の東アジア史研究は、軍事・財政史に多くの蓄積があるので、自分がその方面の勉強をしていた頃は、偉大な先人の残した枠組みの隙間埋めをしていたように思います。今は新たな視点から、音楽史を再構築していくことで、そこから解放されつつあるというのが、私の正直な思いです。

戸川先生

このように国家制度の視点から日本の儀礼音楽をみると、従来の研究は、個別の楽曲・楽器等に焦点をあてたものであり、当時それが演奏される場が如何なるものであったのかということに、あまり深い配慮がなされてこなかったように思います。
その原因は、特定の儀礼音楽のみに焦点をあてた個別研究が戦前から蓄積されたのに対し、その演奏の場である王朝儀礼の研究が脚光を浴びるのは戦後、なかでも歴史学が文化人類学等の影響を受けた80年代前後からであったためでした。
こうした儀礼と音楽を結びつける新たな視角から、東アジアにおける儀礼音楽の実態を明らかにできれば、いわゆる日本固有の伝統音楽とされているもののうち、何が中国、朝鮮半島と共通し、何が真に特異なものなのかを明確にする一助となるでしょう。
例えば、古代中国の儀礼音楽は、皇帝が中国に君臨し、周辺国を服属させていることを音楽によって表現するものでした。日本の儀礼音楽も、こうした中国の儀礼音楽の影響を受けています。ただし、日本では、大陸からもたらされた外来音楽を天皇儀礼の中に新たに位置づけ直し、自国を中心とする新たな儀礼音楽を創ったところに大きな特徴がありました。
一方、朝鮮半島では、君主である王が、中国皇帝より継続的に冊封を受けていたため、日中と異なるユニークな儀礼音楽が創られていきます。このように伝統文化を国際的に俯瞰する研究を続けていけば、日本の儀礼音楽を東アジアの中に位置づけ、とらえ直していくことにもつながっていくように思います。
そうした比較研究を通じて、日本における伝統文化の理解をさらに深めていきたいというのが、私の願いです。

戸川 貴行(とがわ たかゆき)

日本学術振興会特別研究員PD(東京大学)、愛知大学国際中国学研究センター研究員などを経て、現在、お茶の水女子大学基幹研究院人文科学系准教授。平成24年度東方学会〈内閣府所管〉賞受賞。数々の著作を発表しているが、主な論文としては、『東晉南朝における傳統の創造』(汲古叢書)が挙げられる。平成29年度公益財団法人ポーラ伝統文化振興財団の助成事業にて、「前近代東アジア儀礼音楽の比較研究」が助成採択。

 

 

2018年04月10日



映画解説 vol.7

燃え盛る祭りの想像力

映画『炎が舞う-那智の火祭り-』

 

川﨑 瑞穂 (神戸大学)

火祭りの大松明

日常みかけることが少なくなった今日でもなお、祭りに出掛ければしばしば出会うものの一つに、火がある。思い出のワンシーンに祭りの火がある人もいるはずだ。さらに火が主役ともいえる祭りは、日本だけでなく世界各地に伝承されている。今回紹介する映画『炎が舞う―那智の火祭り―』は、和歌山県東牟婁郡那智勝浦町(ひがしむろぐんなちかつうらちょう)に鎮座する熊野那智大社の例大祭、通称「火祭り」をダイナミックに描き出した作品である。

 

この祭礼は、扇神輿(おうぎみこし)という特殊な神輿を用いることから扇祭(おうぎまつり)と呼ばれており、巨大な神輿12体をウェーブのように立ち上げる扇立(おうぎたて)のシーンは壮観である。この神輿を祓い清めるために火を用いることから「火祭り」とも呼ばれているが、本作に映し出される火は全て、7月14日の祭礼当日、朝5時におこされる忌火(いみび)から生まれてくる。那智大滝の御滝本(おたきもと)に鎮座する飛瀧神社(ひろうじんじゃ)では、この火を大松明に点火する儀式が行われる。そして、「オメキ」と呼ばれる渡御の開始を告げる歓声が交叉する中、伏拝(ふしおがみ)という場所から降りてくる12体の神輿と、御滝本から上がってくる12本の大松明が石段の上で出会い、クライマックスをむかえる。

  

なぜ人は祭りに火を採り入れたのだろうか。無論、火の意味が祭りによって様々であることは、火を見るより明らかだ。那智の火祭りは、大松明の「火」と、神輿によって表現される那智大滝の「水」の祭りであると、ナレーションでは語られている。度々登場する聞きなれないキーワードは逐一画面に表示され、この火と水からなる画廊を逍遥する際の導き手となってくれる。祭礼を理解する近道は、各部分が何を象徴するのかを知ることであろう。「記録映画」といういささか学問的な映画の使命は、その水先案内に尽きると言っても過言ではない。しかし、象徴を知るだけでは火祭りの秘密を解き明かすことはできない。われわれはナレーションの行間に侵入し、祭りの想像力の最深部に潜り込んでみよう。

 

本作はこの祭りのクライマックス、赤々と燃える大松明のシーンから始まる。突然画面いっぱいに横溢する火。それは幼き頃に課せられる最初の禁止の一つであり、ゆえに観る者の心に直截的に働きかけ、魅惑する。火祭りは、その「火」の原体験を想像力の源泉として、鮮やかに開花せしめた祝祭であるといえるかもしれない。この喧騒のシーンに、室町時代の面影を遺すとされる典雅な「那智田楽」のシーンが交叉する。ここではあえてナレーションを廃することで、芸能と喧騒、秩序と無秩序、楽音と噪音といった対立を巧みに表現している。ここから視線は空高く上昇し、熊野の山々を一望する。囃子や掛け声を運ぶ「空気」、それらを包み込む熊野の「大地」、そして「火」の神である熊野夫須美大神(くまのふすみのおおかみ)と那智大滝の「水」。これらは祭礼を生み出した人々の、物質的な想像力の「四元素」であるともいえよう。絶妙な場面転換によって描出される祭りの想像力に沈潜するのも、本記録映画を楽しむ一つの方法かもしれない。

 

 

 

火祭りの大松明

②那智大滝

那智大滝

③那智田楽

那智田楽

那智の森

熊野の森 ※本写真は川﨑瑞穂による撮影


※クレジットのない写真は、すべてポーラ伝統文化振興財団による撮影


0125_001記録映画「炎が舞う-那智の火祭り-」(2001年制作/32分)
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※次回は5月10日、「若衆たちの心意気-烏山の山あげ祭り-」をご紹介します。

2018年04月02日

 

秋田県鹿角市花輪では、毎年8月16日~20日にかけて幸稲荷神社(さきわいいなりじんじゃ)の例大祭が行われます。特に8月19日~20日は通称「花輪ばやし」といい、各町の囃子を乗せた豪華絢爛な十台の山車が、二日間ほぼ徹夜で巡行します。  
高久  

秋田県鹿角市花輪は、秋田県の北東部、奥羽山脈の懐に形成された断層盆地(鹿角盆地)に位置し、東側は岩手県の県境と、北は青森県と県境を接します。

 花輪の8月は、花輪ねぷた(8月7日、8日)から始まり、個々の家の先祖祭りである盆行事(8月13日~16日)、「花輪祭典」とも呼ばれる幸稲荷神社の例大祭(8月16日~20日)、花輪の町踊り(8月26日~9月8日)と、次々に民俗行事が行われ、総して「花輪祭り」と称します。19日~20日に屋台で演奏される祭囃子が花輪囃子です。以前は「はやし」や「ギオンばやし」といわれていましたが、昭和以降全国的に知られるようになり、「花輪囃子」「花輪ばやし」という呼称が生まれました。現在では「花輪ばやし」が例大祭の通称として呼ばれることが多くなっています。ここでは、例大祭のことを「花輪祭典」、囃子のことを「花輪囃子」と称してお話します。
 
高久2  

一つの囃子を演奏するのに同じ町の人々によって伝承されていることが多いのですが、花輪囃子は太鼓と鉦は各町の若者、笛と三味線は近隣地域に住む「芸人さん」と呼ばれる人々によって演奏されます。

各町の若者は子どものころから演奏を聞いておりリズムは覚えているため、小学生になって本格的に稽古を始めると、すぐに叩ける場合も多いそうです。はじめは、3列目の「中太鼓」から叩きはじめ、花形である「大太鼓」の演奏を目指して町内の若者たちが切磋琢磨して稽古します。若者会は42歳で卒業します。30代以降は祭りの運営が中心となるので、囃子の奏者は10代~20代が中心となり、活気あふれる演奏をします。
 
高久3  
 一方「芸人さん」は、長い人だと60年以上同じ町で演奏しています。「芸人さん」はそれぞれ師匠がおり、師匠から個別に笛や三味線を習って、師匠の采配で演奏する町の屋台が決定します。師匠から仕込まれる芸はとても厳しいものだったといいます。「芸人さん」の系譜をたどっていくと、「あやめの市」という名にあたります。「あやめの市」は座頭であったといい、「芸人さん」はその系譜上にいます。昭和60年代頃までは盲目の奏者も「芸人さん」を務めていました。現在の芸人に座頭はいませんし、本職を持ちながら花輪祭典のときだけ笛や三味線を演奏していますが、以前は芸を生業としている人たちが演奏していました。

このように花輪囃子は、年若く情熱的な演奏をする太鼓と鉦の奏者と、長年にわたり同じ町で演奏することで、その町の囃子の特徴を町の住民よりもよく知る「芸人さん」によって伝えられています。情熱だけでは崩れてしまうかもしれない囃子のクオリティを「芸人さん」がひっぱり、町の若者たちが若さとパワーある演奏で訪れた見物客たちを魅了します。技術と情熱が混在した花輪囃子をぜひ一度ご覧ください。

なお花輪祭典は、2014年に「花輪祭の屋台行事」として国指定重要無形民俗文化財に指定されています。
 

 

高久舞(たかひさまい)

國學院大學文学部非常勤講師。

 

日本大学芸術学部演劇学科卒業後、國學院大學大学院文学研究科にて民俗学を学ぶ。

20163月に國學院大學にて学位取得(民俗学)。専門は民俗芸能、伝統芸能。

201712月民俗芸能学会「本田安次賞奨励賞」受賞。

 民俗芸能・伝統芸能の研究とともに若手邦楽グループ「和っはっは若衆組」メンバーとして邦楽・日本舞踊のレクチャー公演を行っている。

2018年03月25日

映画解説(工芸部門)vol.3

絹帯をめぐる音の風景

映画『筬打ちに生きる−小川善三郎・献上博多織』

  大友 真希(染織文化研究家)
Tab01_009[1]

 「帯の値打ちは色や柄だけでなく音にもある」と小川善三郎(1900-1983)は語る。

 

 本映画の終盤に、小川が織り上げた帯を織機から外す場面がある。しっかりと織り込まれた厚みのある絹帯が、小川が手元に巻き取るたびに、シューッ、シューッ、と重厚な音を立てる。絹鳴りである。小川がつくる献上博多織は、織り味が良いというだけでなく、気持ちの良い絹鳴りがするのだ。上質な絹糸を用い、長年の修練をともなった手織り特有の音が、小川の帯にはある。

 

 機織りは、昔から男性よりも女性に結び付けられる仕事としておこなわれてきた。祖母や母の姿をみて、糸作り・機織りの仕事を体得することが女性として一人前と認められる要素の一つであり、家のため、夫や子供のために縞や絣模様を工夫して織ることは、女性たちの楽しみでもあった。糸紡ぎ・機織りをする女性たちの姿は日本の原風景の一つであり、糸を紡ぐ糸車の音、機を織る音が家々から聞こえてくる、そういう「音の風景」が多くの土地に存在していた。女性たちの手により綿々と織られてきた布は、やわらかさをもち、身につける者に温もりを感じさせたことだろう。

 

 一方、博多織では、経糸(たていと)の密度が非常に高く、緯糸(よこいと)を打ち込むには強い力が必要とされたため、昔から、織り手には男性が採用されてきた。小川の織る博多織は、厚みを持った強靭な織物である。映画には、小川がひたすら織機と向き合う姿が映し出されるが、強い力を入れて織る様子は見られない。畦(あぜ)を上下させ経糸にカラカラカラと杼(ひ)を通す。タンタンと緯糸を打ち込んだ後、他方の畦を上下し、タン、ターンと筬打ち(おさうち)をする。畔を上下させ、経糸に杼を通し、筬を打つ冴えた音が、繰り返し機場に響く。小川の呼吸に合わせて、八千本もの経糸が縺れることなく織り進んでいく。糸・織機との掛け合いに無心で取り組む姿がそこにある。決して「力」を入れているのではなく、経験によって自身の身体に染み付いた織りの息づかいがそうさせている。

 

 小川は、一連の音色を基に、織りのテンポをとっているのではないだろうか。それは、かつて女性たちが歌った機織唄のように。唄により一定の調子で作業を続けることができ、反復仕事の退屈も避けられる。また、機織唄は、「いい布が織れるように」との願いや祈りが込められていて、本来は、機織神へ捧げる唄でもあるのだ。神聖な気持ちで機織りに臨むことがあたりまえとされていたからであり、小川にもその心があることは仕事に向かう姿勢からも伝わってくる。

 

 小川は優れた作品のことを「気合いの籠(こも)った帯」と呼ぶ。「厚みのある強靭な帯」とは、男性的な織物だといえるかもしれない。しかし、小川の織る献上博多織は不思議とやわらかい。その理由は、気合いを籠めた呼吸が奏でるその「音」にみることができるだろう。

小川善三郎 1982年

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機織り(畦を上下させ、経糸に杼を通し、緯糸を打ち込む)する小川

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織り上がった帯を検品する小川(右)と家業を継ぐ息子の規三郎(左)

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小川善三郎《三献上博多織帯》 1982年
ポーラ伝統文化振興財団蔵


※今回掲載した写真は、ポーラ伝統文化振興財団による撮影


0097_001記録映画「筬打ちに生きる-小川善三郎・献上博多織」(1982年制作/33分)
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※次回は4月25日、「紬に生きる-宗廣力三-」をご紹介します。

2018年03月10日

映画解説 vol.6

曳山、あるいは東西文化のタペストリー

映画『―琵琶湖・長浜―曳山まつり』

  川﨑 瑞穂(国立音楽大学助手)

①曳山全体像

祇園祭、高山祭に続く「日本三大曳山祭」の一席、ここに長浜曳山祭と秩父夜祭のどちらを入れるかは意見が分かれる。どちらもユネスコの無形文化遺産「山・鉾・屋台行事」に名を連ねる甲乙つけがたい祭礼であると、ここでは軟着陸しておこう。今回紹介する映画『―琵琶湖・長浜―曳山まつり』は、前者を題材とした記録映画であり、特に子ども達によって演じられる「こども歌舞伎」を、稽古から本番まで描き出している。歌舞伎といえば、後者の秩父夜祭も負けず劣らず有名であるが、映画『秩父の夜祭り―山波の音が聞こえる―』と本作を見比べて、どちらを三大曳山に入れるかを密かに考えるのは、観る者に許された自由であろう。

 

琵琶湖の北、滋賀県長浜市で毎年4月9~16日にかけて開催されるこの祭礼は、町衆の内、「子ども役者」「若衆」「中老」という三つの異なる世代が行う祭礼である。町衆が集まって祭礼の相談をする場面に続いて、曳山の絵画や、セピア色の古写真が多数映し出される。春休みになると、子ども役者の稽古がはじまる。役者には幼稚園児もおり、振付の先生から指導をうける彼らの後ろでは、若衆がサポートをする。稽古で「チリカラスッタータッポッポ」といった不思議な声を出しているが、これは三味線の「チントンシャン」のような、音楽を覚えるための「唱歌(しょうが)」という歌である。曳山祭の歌舞伎は「義太夫節」という三味線音楽の伴奏で演じられるが、義太夫節の映像に、なぜかバロック音楽、すなわちバッハやヘンデルといった作曲家に代表される時代の西洋音楽が合わされる。本作ではバロック音楽やルネサンス音楽が度々登場し、曳山の曳行(えいこう)のシーンでは、なんと祭り囃子や掛け声に重ねあわされている。なぜだろうか。

 

ヒントは随所に示されている。16世紀末に遡るとされるこの祭礼では、曳山に舶来のタペストリー(織物)が飾られているが、これは祇園祭と同じく、町衆が財をなげうって買い求めたものである。また本作冒頭では、鉄砲をはじめて造った工業の町として長浜が紹介されているが、「鉄砲」や「織物」といった長浜を象徴する外来文化の流入期は、およそ西洋音楽史のルネサンス(15~16世紀)からバロック(17~18世紀半ば)にかけての時代にあたっている。本作を観る者は、曳山とタペストリーという視覚だけではなく、聴覚によっても同時代の文化のコントラストを楽しむことができるのである。

 

曳山は長浜八幡宮に集まり、いよいよ「狂言奉納」となる。子ども役者の演技とそれを熱心にみる大人たち。ナレーションでは、町衆が創り出した趣向として歌舞伎が紹介されているが、歌舞伎もまた時を同じくして生まれ、江戸期を通じて発展した芸能である。ヨーロッパの織物を飾り、歌舞伎を載せた曳山のごとく、およそ文化というものは何らかの「他なるもの」の集合体である。それは舶来のタペストリーよろしく、様々な種類の糸で織られた織物であり、本作はその東西文化の綴織(つづれおり)を、映像と音楽の組み合せによって巧みに表現している。バロック音楽の「通奏低音」のように本作と曳山祭を貫流する異種混淆性、「文化のオリジナルとは何か」という問いが、そこからかすかに聴こえてくる。

長浜の古い町並みと曳山

②子ども歌舞伎の練習風景

子ども歌舞伎の練習風景

鳳凰山-002()

鳳凰山の見送り幕(タペストリー)
※写真提供: 長浜市曳山博物館

④子ども歌舞伎の上演風景

子ども歌舞伎の上演風景
※クレジットのない写真は、ポーラ伝統文化振興財団による撮影


0064_001記録映画「-琵琶湖・長浜-曳山まつり」(1985年制作/32分)
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※長浜曳山祭の詳細は、機関誌「伝統と文化」40号をご覧下さい。
詳細はこちら

※次回は4月10日、「炎が舞う-那智の火祭り-」をご紹介します。

2018年03月01日

 

私は民俗芸能の詞章の研究や詞章を基にした作詞の仕事をしています。今日は、私が作詞し、平成29年3月7日、紀尾井ホールで作品として発表された、大和楽「四季の雨傘」を題材に、民俗芸能(広島県の田植唄の詞章の一部)を取り入れた詞章のあり方、新しい形での言葉と文化の伝承についてお話ししたいと思います。

 一昔前であれば当たり前のように様々な芸能から長唄や端唄、地歌などに詞章が取り入れられ、形を変えて伝承されてきました。しかし、近年の新作ではその傾向が薄くなっているように思われます。以前からこれを危惧していた私は、紀尾井文化財団の「邦楽作品の新作作詞家を育てる」という目的で開講された「紀尾井邦楽塾」を、平成26年8月に受講し、竹内道敬先生、徳丸吉彦先生、渡辺保先生らの指導を仰ぎ、広島県の田植え唄の詞章を摂取した「四季の雨傘」を完成させました。
稲垣1

中国山脈を挟むようにして広島県北部と島根県南部の山間部落で行われている「花田植え」と呼ばれる民俗芸能があります。

 「花田植え」といえば、2011年にユネスコ無形文化遺産に登録された広島県山県郡北広島町壬生の花田植えが有名すが、今回、私が大和楽「四季の雨傘の詞章として摂取したものは、その壬生の花田植えが行われる千代田町の隣町に位置する、広島県安芸高田市美土里町のもので、本郷(本村)から、北地域にかけて歌い継がれてきたものの一部です。

 美土里町史編集委員会『美土里の歴史と伝説』(1972)によれば、美土里町の「花田植え」の歴史は文政2年まで遡るとされています。
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もともと、「花田植え」の歌は田を守る神である「さんばい」お迎えする行事でしたが、「さんばい」をお迎えする為の歌から、徐々に様々な歌詞が生まれていったと考えられます。

 美土里町史編集委員会『美土里の歴史と伝説』(1972)の中から、今回の大和楽の詞章で用いた歌詞の元歌を引用してみましょう。

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さて、田植え歌の「つるらんつるらんぴんつるらん」という歌詞をみると、座頭(盲人音楽家)が琵琶を弾いた時の擬音である、ということが考えられます。私はこの擬音の特徴を他の音の擬音に置き換えられないだろうか、と考えた。

 擬音について考えた際、「花田植え」の歌詞の全文に「水」に関する描写が多いことに気がつきました。その為、この「つるらんつるらんぴんつるらん」という擬音を「水」に関する別の表現に用いることができないだろうか、と次に考えました。その結果、以下のように傘が雨を弾く音のイメージにたどりつきました。
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広島県の山間部地域のように、日本には限界集落と呼ばれる地域が多く存在します。残念なことではありますが、伝承者がいなくなり、途絶えてしまう芸能は沢山あります。

私が今回紹介したように、新作邦楽の詞章にこのような民俗芸能の歌詞を摂取する、という手法は、今後、途絶えてしまいそうな民俗芸能に再び人々の注目を集め、芸能保存の方法の一つになるのではないかと考えています。新作邦楽には新しい風を、民俗芸能にはその保存を、と双方に良い効果がもたらされるのではないでしょうか。

 「古きを訪ねて新しきを知る。」新しいヒントやアイディアは古典の中に溢れています。皆さんも生まれ育った地域の民俗芸能や興味のある伝統芸能の歌詞を改めて読み直してみてはいかがでしょうか。

 

稲垣慶子

 

国立音楽大学アドバンストコース、日本大学博士前期課程舞台芸術専攻修了。日本の横笛の歴史研究、古典音楽の詞章研究を中心に活動中。

 

2018年02月25日

映画解説(工芸部門) vol.2

「流れの美」を描いた染色家

−映画『芹沢銈介の美の世界』−

   大友 真希(染織文化研究家)
339、芹沢銈介、額「風」

《風の字》 紬地型絵染 1957年

公益財団法人ポーラ伝統文化振興財団

 《風の字》は、芹沢銈介(1895-1984)の代表作の一つである。「風」を筆の勢いで書いたままに見えながら、丸みを帯びるそのかたちが、月夜の空を吹きぬける「風」そのものをあらわしているようにも見えないだろうか。実体がなく目に見えない風の流れは、芹沢の目、耳、鼻、皮膚に伝わり一度内面化されたのちに、「型絵染」によってあたらしい命が吹き込まれている。《風の字》が生み出された経過を、そんな風に考えてから再び《風の字》と向き合うと、今度はあたかもポーズを決めた「風」がスポットライトをあびる姿に見えてきて愛くるしささえ感じた。この《風の字》は「のれん」の模様としても親しまれている。
屏風007 布文字春夏秋冬二曲屏風(縮小)
《布文字春夏秋冬二曲屏風》 1965年

静岡市立芹沢銈介美術館

 芹沢は、あらゆるものを題材にして模様を描いた。植物、動物、風物、諸像、暮らし、仕事、道具、物語、文字、具象、抽象…森羅万象がモチーフだったと言っても過言ではない。
 

 そのなかに、「春夏秋冬」という文字をデザインし四季の変化をあらわした《布文字春夏秋冬二曲屏風》がある。「春夏秋冬」の文字と季節ごとの動植物模様が周りを囲む。《風の字》と同じ文字絵であるが、その文字は流動する帯状の布によってあらわされている。芹沢はこれを「布文字」と呼び、多くの作品を生み出した。

のれん024 天の字のれん《天の字のれん》 1965年
静岡市立芹沢銈介美術館

 《天の字のれん》もその一つだが、これについては「天」という文字よりも、動いている布そのものが主題であるかのようだ。さらに布が布に型染されているという多層的な趣向が、不思議な感覚をあたえている。芹沢にとって文字を書く筆の流れは、天に舞う布の流れも内包していた。


 本映画では、88歳を迎える芹沢がなお旺盛に創作する姿が映し出され、その生涯を振り返りつつ、作品に見る「美の世界」が描かれている。芹沢は自らの溢れる創作性を、ただ「描く」だけでなく、型紙彫り、糊置き、色差しといった「行為の重なり」によって最大限に成就させた。下絵どおりの、または頭にイメージした完成形に向かう制作を好まず、「行為の過程を愉しんだ集積」によって作品を生み出していたのだ。伝統染色である型染は、古くから職人の分業によって制作されてきたものだが、芹沢はすべての工程を自らの手でおこなった。その一貫した仕事は、独自の芸術性を創出し、あらたに「型絵染」と呼ばれるに至った。

芹沢銈介L芹沢銈介 1983年
公益財団法人ポーラ伝統文化振興財団
 映画のなかでは、芹沢がこれまでの仕事を顧みて、「なんで今までやってきたのか分からない。自分でこうやろうと思っていたのではなく、いつの間にかこうなった」と冗談めかして話したというのが印象的だった。また、「家出をして、ほうぼうを旅してまわりたい」と「流浪」への憧れをよく口にしていたのを知り、芹沢の眼差しとその先にあったものの正体を掴むことができた気がしている。芹沢は、「流れの美」をこの世界に見いだしていたにちがいない。



 

0012_001※記録映画「芹沢銈介の美の世界」(1984年製作/35分)
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※次回は3月25日、記録映画「-筬打ちに生きる-小川善三郎・献上博多織」
をご紹介します。

 

2018年02月15日

 【地域社会における信仰民俗文化と風土 ―青森県津軽地方の川倉賽の河原祭祀を事例として―】

DSC_0524 死者(亡児)供養をする信仰祭祀に賽の河原霊場の例大祭があります。全国的な分布を示す賽の河原は、名称を示すだけや荒廃著しい実態が見受けられる反面、特徴的な信仰祭祀が現在も盛行している地域が確認できます。その存続の主体は地域住民であると言っても差し支えないでしょう。紙幅の関係で全貌を述べられませんが、現在も存続される事象について、霊場存立の多い青森県津軽の祭祀事例からお話をさせていただきます。
   

川倉賽の河原地蔵尊本堂

 
DSCN2247 青森県には霊場が点在します。国内的には下北の恐山が有名ですが、地域主体で継承する多くの霊場は津軽地方といえます。その中で、現在も特徴的な死者(亡児)供養が盛行するのは「通称:ストーブ列車」の津軽鉄道で有名な、青森県五所川原市金木町川倉に建立された地蔵堂を中心にした川倉賽の河原地蔵尊です。本堂に向かう坂道の両側には数多くの地蔵像が祀られてお菓子や果物の供物が置かれ、無数の赤い風車が亡者(子ども)を供養する情景として独特の様相を醸し出します。
参道の風車が寂しさと我が子を思う気持ちに溢れている。  
DSCN2243 写真は2011、2014年の例大祭の様子です。大祭へは供養の申し込みをして、近隣の寺から参勤した僧侶に「諷誦文(ふじゅもん)」の読誦依頼をすることで参加が可能となります。読経供養の後、本堂内陣裏の階段(ひな壇)方式に安置する供養者各自の地蔵像にお参りを済ませ、真新しい着物や帽子(頭巾)を着せ替えます。着物や帽子は、供養者の手製によるもので、同一のものは見かけないほど、様々な色柄・服地で縫製されています。この理由は子どもの頃に着ていたものを利用するということと、着物により、自分の地蔵を容易に判別するためです。このような、亡児供養は他に類をみない特徴といえます。

例大祭の参詣と地蔵像安置の様子

 
DSC_0460 もう一つの特徴は地蔵像です。像は亡くなった子どもの写真等で似せて、石工に彫らせるものがほとんどで、堂内と堂外(堂の周囲・参道)に安置されています。像の総数は二千体以上で堂内でも千六百体が安置されています。基本的には亡くなった子ども1人/1体でありますが、中には子ども数人/1体という像も見かけます。さらに亡児の実在化(擬人化)を求めて顔に彩色をします。これは、化粧地蔵と呼び国内各地に点在する習俗です。亡児供養の際立った特徴の最後に、供養で亡児との対話に介在するイタコの口寄せが重要な行事だということも挙げられます。

イタコによる口寄せの様子

 
DSC_0440

特徴をまとめると、この地は飢饉が頻発した地域で大勢の子供が亡くなった背景から、

  1. 「亡児1人/1体の地蔵像を写真に似せて造立」
  2. 「亡児の実在化(擬人化)を求めて顔に化粧を施す」

ということが特筆できます。また、「イタコの口寄せ」は、賽の川原で「死者(亡児)との再会と対話」という供養が重要不可欠です。以上の事象は、他の霊場には類をみない稀有な事例であり、地域の信仰民俗文化・風土だと考えることができます。

現代とは異なり、幼子が成人を迎えるのが難しかった時代・・・。愛する子が無くなった後も、その子のことを想い続ける・・・。人々の悲しくも温かい心が生んだ、日本の文化なのかもしれません。

亡児に擬人化した地蔵像と独自の着物・化粧

 

 

 

近石 哲(チカイシ サトシ)

2017年、神奈川大学大学院歴史民俗資料学研究科博士後期課程修了。博士(歴史民俗資料学)。現在、神奈川大学日本常民文化研究所特別研究員として日本各地の仏教民俗研究を行っている。

 

2018年02月10日

映画解説 vol.5

民俗芸能のオニが教えてくれること

映画『鬼来迎―鬼と仏が生きる里―』

  川﨑 瑞穂(国立音楽大学助手)

鬼来迎(赤鬼)

多くの祭礼や民俗芸能で彩られる夏の房総半島。千葉県山武郡横芝光町の「虫生(むしょう)」という小さな集落では、先祖の帰るお盆の8月16日、広済寺(こうさいじ)の施餓鬼供養の一環として「鬼来迎(きらいごう)」という芸能が行われる。今回紹介する映画『鬼来迎―鬼と仏が生きる里―』(2013年)は、地獄を表現したこの仮面劇を、伝承者たちの想いとともに描き出した作品である。

夏の日差しに照らされた虫生の美しい田園風景から、映画の舞台は雅楽の響きとともに奈良に移り、當麻寺(たいまでら)の「聖衆来迎練供養会式(しょうじゅらいごうねりくようえしき)」が映し出される。仏を主人公として極楽浄土を可視化したこの法会と、鬼を主人公として地獄を可視化した「鬼来迎」のコントラストが巧みに表現されている。中世ヨーロッパで「メメント・モリ」(死を想え)という言葉が流行し、突如として与えられる死が、生者と死者の交歓、すなわち「死の舞踏」として可視化されたように、死後の世界は各国で様々に表現されてきた。鬼来迎において、死者は閻魔大王による審判を経て、釜茹でをはじめとした鬼の責め苦を受けるが、そこに菩薩が救いの手をさしのべる。最後には仏が助けてくれる、ということが、人々にとっていかに重要であったのかが分かる。しかし、ナレーションでも語られているように、この芸能は地元で「鬼舞」と呼ばれており、あくまで「鬼」が来迎するものである。なぜ、かくも人々を責めさいなむモノをわざわざ招き入れるのだろうか。

そもそも「鬼」とは何者か。今でこそ虎柄のパンツを履き、金棒を持った悪者として追い祓われるだけの存在であるが、日本各地の民俗芸能を見回すと、鬼が主人公になっているものが多く、鬼来迎のように、様々な面や装束で表現されている。「鬼(オニ)」という名前は、一説には「隠(おん)」から来ているとされており、存在の手前、あるいは存在の彼方に踏みとどまっているのが鬼であるともいえる。見えるようで見えないという鬼の特徴は、その「字」にも端的に表れている。鬼来迎の「鬼」という字には、正式には「ツノ」がない。名前自体にも差異がある鬼というモノは、いわば「書かれる」ことをも拒否するモノであり、定義されることを拒絶するモノなのである。

鬼来迎では、このように定義ができないモノを、毎年わざわざ自分たちの中に招き入れる。鬼のなすがままになる死者(=演者)は、理解不可能な他者である鬼を、理解不可能なまま受け入れている。そこに鬼来迎が宿している「絶対的な歓待」の思想を読みとることもできよう。本作には、虫生に移り住んだ男性が、鬼来迎で鬼婆を演じるべく、先輩に教えを乞うシーンがある。先輩にとって新来の住民が他者であるのと同じく、新来の住民にとって、演じるその鬼はまさに他者である。老婆のようにみせるのが難しいと語る新来の住民に、先輩はそのコツを優しく、かつ情熱的に伝授する。鬼来迎と虫生の人々が教えてくれる「他者を歓待する思想」は、これからの時代、様々な「外」の人々に向き合うときに課せられてくる態度でもある。本作を通して、毎年2月3日に退治する鬼に、少し思いを馳せてみてはいかがだろうか。


註:本稿は2018年1月27日に行なった同名の講演(於 くにたち市民芸術小ホール)の発表原稿に基づいている。

赤鬼

鬼来迎(大序)

「大序」

鬼来迎の鬼字

映画『鬼来迎―鬼と仏が生きる里―』パンフレットより、鬼来迎の「鬼」の字

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釜茹でをする黒鬼(左)と鬼婆(右)
※今回掲載した写真は、ポーラ伝統文化振興財団による撮影


 チラシ表画像(下部の黒帯部分はトリミング可です)記録映画「鬼来迎 鬼と仏が生きる里」(2013年制作/38分)
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※鬼来迎保存会は、第30回伝統文化ポーラ賞地域賞の受賞者です。
詳細はこちら

※次回は3月10日、「-琵琶湖・長浜-曳山まつり」をご紹介します。

2018年02月01日

【映画解説(工芸部門)講師のご紹介】

プロフィール写真弊財団では、専門家にご寄稿いただき、記録映画の見ど
ころを解説していただいております。

今月からは、民俗芸能の映画紹介(毎月10日)に加え、
伝統工芸の映画解説(毎月25日)もスタートいたしました。

今回は、染織関係の映画解説(全6作)をしていただく、
染織文化研究家の大友真希先生にお話をうかがいました。


(以下、大友先生:先生、財団職員:財団)

...

[伝統染織の魅力について]

財団:伝統染織の魅力は、なんでしょうか?

先生:日本には、実に多種多様な伝統染織があります。それらが完成品において各々の魅力
    をもつことは言うまでもないのですが、それらを生み出すつくり手たちの手仕事への姿勢
    や信念にも心がひかれます。

財団:つくり手たちの手仕事への姿勢や信念ですか・・・なんだか深いですね。

先生:現代において、機械化した効率的な生産ではなく、手間と時間のかかる伝統染織を選び
    継続していくには、つくり手の強い意思や働きが確実にあります。
    そうした「染め・織り」への「思い」のようなものが完成品の深みを増しているのではと思います。

財団:たしかにそうですね。地道な手仕事で作られた着物などは、着たら思わず背筋が伸びま
    すし、大切にしなくてはと思います。

先生:伝統染織というと着物のイメージがあると思いますが、なかにはバッグ、財布、帽子など
    日常的に使えるプロダクトも数多くあります。工芸品は「使う」ことでその良さがわかります
    ので、小物からでも、生活のなかで使ってみるといいと思います。


[ポーラ伝統文化振興財団の記録映画の見所]

財団:ポーラ伝統文化振興財団の記録映画の見所は、どんなところですか?

先生:どの映画も、伝統染織を受け継ぐ方々の「染め・織り」への真摯な姿勢や強い信念が垣間
    みられる場面が見所だと思います。

財団:ありがとうございます。実は弊財団の映画は、ただ製作工程を記録するだけでなく、つくり手
    の人柄や、創作に対する信念、伝統に向き合う心などが伝わるような映像づくりに力を入れ
    ています。

先生:そうでしたか。もちろん、製作工程をわかりやすく解説しながら、つくり手が素材と向き合う姿
    や熟練した手技を丁寧に記録されているのも素晴らしいです。なかには、もうお亡くなりにな
    られて、お目にかかることが叶わない、つくり手の姿や技が映像で残されているものもある
    ので、染織資料としてもとても貴重です。


[ご自身の研究について]

財団:ご自身の研究について教えていただけますか?

先生:日本とメキシコの染織文化を研究しています。

財団:えっ、日本とメキシコの染織文化ですか?興味津々です!もっと具体的に教えて下さい。

先生:日本では、草木の皮などの繊維を糸にして織った布、「原始布(げんしふ)」といわれる織物
    を対象に、その生産方法や技術伝承を調査しています。メキシコでは、オトミ族の村でつく
    られてきた、竜舌蘭の一種「マゲイ」の織物について調査をしています。

財団:原始布ですか!過去の伝統文化ポーラ賞受賞者の中に、山村精さんという原始布の復元
    に尽力された方がいらっしゃいます。木綿や麻の織物が登場する前の古代の人々から伝わ
    ってきた貴重な技術ですよね。まさかメキシコにも似たような織物があるとは驚きです。

先生:そうですね。大変興味深く研究しています。

財団:先生は今の研究をなさる前に、作り手として染織の制作技術も学ばれていたんですよね?

先生:はい。大学時代は美大でテキスタイルデザインを学んでいました。
    1~2年生で染織の基礎技術を習得した後、卒業制作ではジャガード織機を使って織物作品
    をつくりました。

財団:そうでしたか。大学時代に制作技法を学ばれた経験は、きっと今の染織研究につながってい
    らっしゃるんでしょうね。

先生:とても役立っていると思います。染織では、とりわけ「織布」の工程が注目されがちですが、
    織り仕事に至るまでにはいくつもの工程があって、ここにも多くの時間と労力が費やされます。
    糸づくりからする場合は一層大変です。

財団:なるほど。

先生:染織について調査・研究をする際、その大変さを体で理解していることは大事だと思います。
    そのため、メキシコでも日本でも、調査させていただく方々の仕事に参加させていただくこと
    が多いです。


[今後について]

財団:先生の今後について教えて下さい。

先生:今後も日本全国の染織工芸産地を訪れ、さまざまな「染織の姿」を見ていきたいと思います。
    また、いつになるか分かりませんが、日本とメキシコの染織文化を両国に紹介できるような
    活動ができればと考えています。

財団:先生、貴重なお話をどうもありがとうございました。



■大友真希先生
染織文化研究家。多摩美術大学にてテキスタイルデザインを学ぶ。2008年よりメキシコに滞在し
インディヘナの染織文化を調査。帰国後、日本国内の染織工芸産地を訪れフィールドワークを行
い、技術伝承における「風合い」の経験・感覚的認識について探求をしている。現在、東京・神奈
川の自治体で学芸職に従事しながら日本・メキシコを中心とした染織文化の調査・研究を行って
いる。

<経歴>
1980年 東京生まれ
2004年 多摩美術大学美術学部生産デザイン学科テキスタイルデザイン専攻 卒業
2009年 メキシコ国立人類学歴史学学院(ENAH)留学(~2011年)
2014年 神奈川大学大学院歴史民俗資料学研究科修士課程 修了

<執筆歴>
『布のゆくえ–久高島の衣裳にみる−』多摩美術大学テキスタイル研究室助手副手展、2006年
「それ自体が巨大な織物であったメキシコ」『Águila y Sol』No.28、日墨交流会、2011年
「民具短信」『民具マンスリー』4月号、神奈川大学日本常民文化研究所、2017年

2018年01月25日

これまで毎月10日に民俗芸能の映画解説をお届けしてまいりましたが、今月から
毎月25日に伝統工芸の映画解説もスタートいたします。

工芸部門の映画解説は、毎月25日の公開で、まずは染織関係の映画6作品につ
いて、染織文化研究家の大友真希先生に解説していただきます。ぜひご覧下さい。


映画解説(工芸部門) vol.1

わざと心を受け継ぐ織物

−映画『芭蕉布を織る女たち−連帯の手わざ−』−

  大友 真希(染織文化研究家)

芭蕉布1

張りがあって風通しの良い風合いをもつ芭蕉布は、琉球の風土にあう着物の素材としてかつて広く用いられた織物である。沖縄県大宜味村喜如嘉(おおぎみそんきじょか)では、自家用に織っていた芭蕉布を明治後期から地場産業に発展させ、昭和前期までその発展が続いた。戦後、衣料の急変などで生産が衰微していたが、平良敏子(たいらとしこ・大正10年生)さんを中心とした集落の女性たちによって喜如嘉の芭蕉布は再興した。昭和30年頃を境に古くからの慣習・生活も大きく変わっていくなか、長年地域に伝わる芭蕉布の発展と継承にすべての力を尽くしてきたのが平良さんである。平良さんを指導者に、芭蕉布づくりに励む女性たちのその技術と生み出される芭蕉布は、昭和47年に沖縄本土復帰の後、県の無形文化財に指定された。また、国の重要無形文化財に指定(昭和49年)、第1回伝統文化ポーラ大賞受賞(昭和56年)など、日本の伝統染織として高く評価されていったのである。

本映画では、原木栽培から織物の完成に至るまでの全行程を追いながら、喜如嘉の女性たちが連帯と共同の力で守り続けてきた芭蕉布づくりの様子が克明に記録・紹介されている。芭蕉布ができあがるまでには何十もの工程があり、その一連の作業は単純かつ複雑でありながら、すべてが手仕事でおこなわれている。どの仕事も技術と根気を要するのだが、こうした芭蕉布づくりは喜如嘉に暮らす女性たちの「連帯の手わざ」によって支えられてきた。

芭蕉布の原木・糸芭蕉の伐採にはじまり、皮から繊維を取り出し、繊維を績(う)んで糸にする。糸づくりはもっとも大変で時間のかかる仕事である。単調な手仕事の繰り返しなのだが、布を織るための糸となるには大量かつしっかりと績まれたものでなければならず、それには熟練した技が欠かせない。そのため、糸づくりは年配女性たちが頼りとなるのだ。それは絣糸(かすりいと)をつくる仕事も同じであり、糸を括る彼女たちの指の動きは確実で巧みである。平良さんは、こうした芭蕉布づくりの先輩方に対し、敬意と感謝の気持ちをもちながら日々仕事に努めていることが全編を通して伝わってくる。個人としての作家性を持たず、地域性を重んじた共同体による手仕事を貫くことで、芭蕉布の美しさが保たれてきたのだと思わずにはいられない。

12月から翌2月にかけて、喜如嘉の女性たちは苧倒し(うーだおし・糸芭蕉の伐採)から苧引き(うーびき・糸芭蕉から繊維を採取)の仕事に追われる。芭蕉布に適した良質な繊維を取れるのがこの季節だからだ。以前、喜如嘉の工房を訪れたとき、若い研修生たちが黙々と仕事をする傍ら、ただ静かに芭蕉糸を績む平良さんの姿があった。本映画の撮影から四十年近く経過したいまも、平良さんが芭蕉布の先人たちから引き継いだ「わざと心」はしっかりと生きている。


糸芭蕉の茎から皮を剥ぐ(苧剥ぎ)

芭蕉布2

繊維を績んで糸をつくる(苧績み)

芭蕉布3

織りあがった芭蕉布を干す平良敏子さん

芭蕉布4

若い世代へとわざが受け継がれていく

※今回掲載した写真は、ポーラ伝統文化振興財団による撮影

 
Basyouhu※記録映画「芭蕉布を織る女たち-連帯の手わざ-」(1981年製作/30分)
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※次回は2月25日、記録映画「芹沢銈介の美の世界」をご紹介します。

2018年01月15日

【エイサーの伝統と展開】

 エイサーとは、沖縄本島およびその周辺離島で旧盆の時期に先祖供養のために地域の若者たちによって踊られる芸能である。その起源は諸説あるが、一般的に日本本土から来沖したチョンダラー(京太郎)という流浪芸能集団に起源を求めることが多い。彼らはいわゆる門付芸人であり、念仏歌を唱えながら沖縄各地の家々を歩きまわっていたが、やがて、沖縄の青年たちがこの念仏歌を習い覚え、家々を巡るようになった。その担い手は青年会と呼ばれる市町村ごとに結成されている自主的な組織に属し、旧盆の時期になると、夕方から夜中かけて各家を踊りまわる(写真1)
 地元の人はどこからか聞こえてくる太鼓の音を頼りに、エイサーを見に来る。青年会の回るルートは公に発表されていないので、このように太鼓の音を頼りに地元の人が徐々に集まってくる(青年会に問い合わせてルートを把握することはできる)。

エイサー









写真1 普天間三区青年会   撮影:執筆者


 エイサーは各青年会によってキャラクターが異なるため、隊列や振り付け、衣装、人数、曲目などを比較しながら見てみると面白い。例えば、各青年会のエイサーの伴奏曲で《仲順流れ》や《唐船ドーイ》などは必ず含まれるのだが、同じ曲でも、テンポやその楽器構成、曲中の振り付けや隊列に違いがあるので、その曲の雰囲気や印象は青年会によって変わってくる。この多様化の背景には、1956年に開催された「全島エイサーコンクール」の影響が大きく、当時、各青年会は審査員や観客からの注目を引くために、豪快に太鼓を回したり、踊り手がジャンプをしたりと、青年会独自のエイサーを追求しており、現在でもそうした工夫は盛んに続けられている。1977年からは「全島エイサーまつり」に改名され、コンクール形式は廃止されたが、エイサーまつりは夏を代表する一大イベントになっている(写真2)

 
エイサー②









写真2 全島エイサーまつり(初日) 撮影:執筆者


 このようにエイサーは青年会を中心に継承・発展されていくが、それとは別に、1980年代以降、沖縄では地域共同体に依存しないクラブ型エイサーと呼べる新しいエイサーが登場した。1982年に結成された「琉球國祭り太鼓」は、沖縄だけでなく、本土や海外でも積極的に活動し、現在でもクラブ型エイサーとして根強い人気を持っている。青年会は住んでいる地域の人々によって組織された団体であったが、クラブ型エイサーは地域に限らず誰でも参加することができる。また、旧盆以外でも年間を通じての活動、女性でも太鼓を叩くことができる(伝統的に女性が太鼓を叩くことはなかった)など、様々な点で従来の青年会の伝統エイサーと異なる。特に、伴奏曲は今まで念仏歌、民謡、新民謡で構成されていたのに対し、クラブ型エイサーは沖縄ポップを導入するという斬新な展開を見せている。
 このように、エイサーには伝統に重きを置いた青年会とその型にとらわれないクラブ型エイサーがある。みなさんも沖縄に訪れた際には、両者のユニークなエイサーをご覧になってはいかかがだろうか。



澤田聖也 プロフィール

沖縄県那覇市生まれ。国立音楽大学 音楽文化デザイン学科音楽学卒業。東京藝術大学大学院 音楽研究科音楽文化学修士課程に在学。2015年、グローバル・カルチャー那須プロジェクトに三味線で参加。「沖縄音楽とアイデンティティの関係性」、「在沖米軍基地周辺のミュージシャンの演奏活動」をテーマに研究を行っている。

2018年01月10日

映画解説 vol.4

「まつり」と「きまり」

映画『神と生きる―日本の祭りを支える頭屋制度―』

  川﨑 瑞穂(国立音楽大学助手)

第一段落:「諸田舟神事」で2隻の諸田船の舵子が水をかけあう場面(PC131707左中央)

われわれの日常生活に様々な「きまり」があるのと同じく、各地に存在する祭礼にも多種多様な「きまり」がある。人間と自然との関係が「文化」であり、人間同士の関係が「社会」であるとするならば、その双方に跨るのが祭礼の「きまり」であるといえる。祭礼の代表者「頭屋(とうや)」にまつわる「きまり」はその好例であるが、今回紹介する映画『神と生きる―日本の祭りを支える頭屋制度―』は、複雑な頭屋制度の仕組みを、二つの祭礼を通して、図を使用しながら分かりやすく解説した作品である。

一つ目の祭礼は、島根半島の東端、松江市美保関町の美保神社に伝承されている「諸手船神事(もろたぶねしんじ)」と「青柴垣神事(あおふしがきしんじ)」である。毎年12月3日と4月7日に行われるこれらの神事は、「国譲り神話」、すなわち地上の神であるオオクニヌシ(ダイコク)が、当地「出雲の国」を天から降ってきた神々に譲る神話に基づいている。氏子の中から選ばれた「一ノ当屋」「二ノ当屋」の2人は、青柴垣神事においてミホツヒメ(オオクニヌシの后)とコトシロヌシ(エビス)となり、干し柿以外口にしてはいけない、目を開けてはいけない等、様々な「きまり」が課せられる。本作では、神となった2人が行列を伴って海に向かい、囃子が奏されている舟に乗り、海上での擬死再生の儀礼を経て神社の拝殿に迎えられるまでを詳細にまとめている。

次に舞台は兵庫県加東市上鴨川の住吉神社に移る。毎年10月4日と5日に当地で行われる「神事舞」は、氏子によって組織される宮座(みやざ)の一人が神主を務める芸能であり、こちらにも様々な「きまり」がある。最初の太刀舞(リョンサン舞)は、宮座の「若衆(わかいしゅう)」の序列で、上から三段目のものが舞うという「きまり」がある。また、本作には御神楽(おかぐら)で使用する楽器の一つである小鼓を転がして渡すシーンがあるが、これは手渡ししてはいけないためである。神事舞ではこの他にも、獅子舞、田楽、扇の舞(イリ舞)、高足、能舞(翁舞)といった様々な芸能が披露されるが、本作にはこれらの練習(はつならし)の風景も収録されており、芸能の「きまり」がどのように伝承されているのかがよく分かる。

室町時代より続くとされるこれら二つの祭礼を通して、われわれは頭屋制度だけではなく、祭礼自体に張り巡らされている多彩な「きまり」に遭遇する。本作に多数盛り込まれている個人へのインタビューは、この一見無意味なようにも思える「きまり」がなぜ伝承されてきたのか、その答えを探る糸口となる。祭礼の「きまり」は、しばしば日常の「きまり」を逆転、あるいは侵犯したものであるが、仕事と神主との両立の難しさを語る神事舞の青年の顔は、むしろ自信に満ちている。仕事、すなわち「何か」のために自らを捧げる社会的な「きまり」の中で、年に一度、あるいは一生に一度、何のためでもない別の「きまり」に自らを捧げるその刹那、人は生きていることを実感するのではあるまいか。様々な「きまり」の中で神と生き、さらには神となる個人を追った本作は、われわれに「生きるとは何か」ということを考える機会を与えてくれる作品でもある。

諸手船神事

第二段落:「青柴垣神事」で頭屋が2人並んで座っている場面(PC131731左2枚画質良い方)

青柴垣神事の一ノ当屋と二ノ当屋(中央の2人)

第三段落:太刀の舞(PC131696のタテの写真)

神事舞「太刀舞(リョンサン舞)」

第四段落:神事舞の神主へのインタビューの場面(PC131682左中央か左下)

「受渡し」(神主と禰宜が交代する儀礼)
※今回掲載した写真は、ポーラ伝統文化振興財団による撮影

 
4110_001※記録映画「神と生きる-日本の祭りを支える頭屋制度-」(2004年制作/30分)
映画紹介はこちら
無料貸出はこちら
※次回は2月10日、「鬼来迎 鬼と仏が生きる里」をご紹介します。

2017年12月22日

               年末年始休業のお知らせ

 弊財団は12月25日(月)、12月30日(土)~1月4日(木)は年末年始休業となりますので、

各種お問い合わせについてのご対応が1月5日(金)以降になります。
 
お客様にはご迷惑をおかけして申し訳ございませんが、ご了承くださいますようお願い申し上げます。

 新しい年も変わらぬご支援のほど、よろしくお願い申し上げます。 

2017年12月20日

【ブラジル国レジストロの灯籠流し】

 1908年から日本人のブラジル移住がはじまり、来年はブラジル日本移民110周年となります。評論家の大宅壮一が「明治の日本が見たければブラジルにいけ!」との名セリフを残したという話もあるほど、ブラジル日本移民社会には初期の移民たちが持ち込んだ明治気質が色濃く残り、現在でも遠く離れたブラジルで日本伝統文化を継承しようと試みている人々がいます。

 サンパウロ市から約180キロ南西にあるリベイラ川のほとりに位置するレジストロ市では、毎年11月に灯籠流しを行い、先没者への慰霊法要などを通じて日本の文化をブラジル社会へ広めています。

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灯籠流しは、一般的にはお盆に行われる送り火の一種であり、死者の魂を弔って灯籠を海や川に流す日本の伝統行事の一つです。では、なぜブラジルでは11月に行うのでしょうか?実は11月2日カトリック教国のブラジルは『死者の日』を迎えます。ポルトガル語で「Dia de Finados」。この日は全国の学校、職場などが休みとなり、多くの人が墓地を訪れ死者の魂のために祈りを捧げます。この死者の日をブラジルに移民した日本人やその子孫である日系人たちは「お盆」と称し、カトリック教徒でなくてもお墓参りをして先祖や先没者を慰霊するのです。
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この灯籠流しは、今年で63回目を迎えます。1955年、リベイラ河で亡くなった水難事故者に対して日蓮宗の僧侶が「南無妙法蓮華経」の7字を当てた7基の灯篭を流したことから始まりました。現在ではレジストロ日伯文化協会が引き継ぎ、日蓮宗や市役所などと協力して開催されています。

 灯籠流しの催しは二日間にわたって開催され、初日はレジストロ日伯文化協会の和太鼓や民謡大和会のダンスなどが披露されます。2日の午後6時から慰霊法要、そして7時から灯籠流しと続きます。その慰霊法要の前には、日蓮宗徒らが船で川を下りながら太鼓を鳴らし読経をします。リベイラ川を清める儀式です。その後、河岸に建立されている水難犠牲者追悼碑の前で先没者慰霊法要が行われます。法要には、日蓮宗徒だけでなく、ブラジルらしくキリスト教などの宗教団体も宗派の枠を超えて参列し、参列者が順番に祭壇へ線香を捧げます。

 会場周辺にはヤキソバに天ぷら、寿司などの屋台や日用品などを販売する露店も出ます。会場中央には盆踊り用の舞台も設置され、日系人や日本文化に興味があるブラジル人たちがこぞって盆踊りに参加します。フィナーレには花火が盛大に打ち上げられます。

このように灯籠流しや慰霊法要を通じて、日本文化や「先没者の方々のおかげ」や「御先祖様」といった日本の「こころ」を継承してゆこうと試みているのです。

 

 

加藤里織 プロフィール

 JICA横浜海外移住資料館での展示ガイドや帆船日本丸記念財団で学芸補助をしながら、2014年3月神奈川大学大学院博士前期課程修了。同年4月より神奈川大学大学院博士後期課程に在学。2015年2月から2016年2月までサンパウロ大学 哲学・文学・人間科学部大学院(ブラジル)に留学し、帰国後もブラジルと奄美を行き来しながら「ブラジル奄美移民」をテーマに研究を行なっている。

 

2017年12月10日

映画解説 vol.3

緩急織りなす芸能の時間

映画『新野の雪祭り―神々と里人たちの宴―』

  川﨑 瑞穂(国立音楽大学助手)

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大正時代の終わり、信州伊那谷の新野(にいの)から芸能の歴史を辿る壮大な旅をはじめた民俗学徒がいた。雪を豊作の予兆とみるこの芸能を「雪祭り」と命名したのが、その人、折口信夫である。折口の台本による映画『雪まつり』(岩波映画製作所、1953年)を嚆矢として、この芸能は何度か映像化されており、今年2017年には南信州広域連合の民俗芸能保存継承プロジェクトの一環として、記録映像『新野の雪祭り』が制作された。今回紹介する作品は、1991年に伝統文化ポーラ大賞を受賞し、1995年に文化功労者となった民俗芸能研究の泰斗、本田安次が監修した映画『新野の雪祭り―神々と里人たちの宴―』(1981年)である。

雪祭りといえば1月14日から15日朝にかけて行われる伊豆神社(長野県下伊那郡阿南町新野)での神事が中心であり、これを見学することが多いが、本作では前日13日の諸行事も詳細に紹介している。中でもお旅所の諏訪神社で行われる「面化粧」は一見の価値がある。仮面の色を塗り直すこの行事は、御神体である仮面に新たな魂を塗り込む儀礼であるという。雪祭りの魅力の一つがその多彩な仮面であることは、雪祭りを知っている人ならば誰でも首肯することだろう。中でも「サイホウ(幸法)」は最も重要な仮面であり、本作でもクローズアップされているが、そのエキゾチックな仮面と舞には私も感動した記憶がある。

ナレーションでも述べられているように、14日の夜中に顕れるサイホウは計9回も出入りする。本作はダイジェストであるためテンポよく先に進むが、実際の雪祭りの各部分には繰り返しがとても多い。これに対し、「お獅子」のように一度きりしか登場しない役もある。何度も繰り返すこと、逆に1回しか行わないこと、その緩急が芸能独自の「時間」を形作っているともいえる。芸能の時間に身を浸すことは、日常の計測可能な、外的な時間を一旦括弧に入れ、計測不可能な、内的な時の流れに身を浸すことである。このような「芸能の時間」というものは、窮極的には演じられるその場でのみ体験できるものである。

とはいえ、1月の寒空のもとで夜通し観るにはかなりの体力と根気が必要であり、ほとんどの人が休憩所で仮眠をとりつつ観ることとなる。私が雪祭りの調査を行なったのは、学生時代、研究をはじめたばかりの頃であった。夜通し行われるこの祭礼を、せっかく来たのだからと休まずに観ていたら、明け方の帰り際、地元放送局のカメラマンに「ずっと外にいたね」と驚かれたのを覚えているが、今同じように観る自信はない。本作は雪祭りをコンパクトにまとめているが、それでも雪祭りのインパクトは健在である。サイホウのような目立つ部分だけでなく、前述した「面化粧」をはじめ、舞い役を決める御籤(みくじ)や、「お滝入り」という禊(みそぎ)など、一般の目には触れにくい部分にも注目しており、その緩急は映像だからこそ表現できるものであるとも言えよう。本作を通して、時計で計られた日常の時間の中で、ひととき芸能の時間に身を委ねてみてはいかがだろうか。

サイホウ(幸法)

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雪を撒くモドキ(写真奥)

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お獅子
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明け方の新野(伊豆神社より)
※今回掲載した写真は、川﨑瑞穂先生による撮影

 
4045_001※記録映画「新野の雪祭り―神々と里人たちの宴―」(1981年制作/30分)
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※次回は1月10日、「神と生きる-日本の祭りを支える頭屋制度」をご紹介します。

2017年12月01日

【伝統と改革の狭間で‐津軽三味線奏者‐】

津軽三味線奏者の武田佳泉です。最近、テレビのBGMなどでも和楽器の音をよく耳にするようになってきました。東京オリンピックも近づいてきて、和楽器に注目が集まっています。今回は、私が演奏している津軽三味線についてご紹介したいと思います。

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津軽三味線はもともと、盲目の坊様と呼ばれる人たちの門付け芸から始まり、長い間卑しめられてきた歴史があります。
三味線の中で太棹と呼ばれる種類が使われ、激しく力強い演奏が特徴的です。もともと門付けで持ち運びが多かったため、細棹の軽いものを使った方が便利だったはずなのですが、津軽三味線の祖と言われる仁太坊という人が負けず嫌いで、義太夫三味線の太棹に影響を受け今の形になったと言われています。
また、津軽三味線は津軽民謡の伴奏というのが定番ですが、今残されている津軽民謡は最初の形から大きく変化しています。時代が流れ晴眼者の農民も民謡を唄うようになり、節回しや文句を競い合うようにしてどんどん難しくなっていったそうです。それに合わせて伴奏の三味線も技巧的になり、前弾きと呼ばれる前奏部分が発展して独奏楽器としても活躍するようになりました。
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今でも、演奏会では曲中で拍手をしても良いということになっているのですが、昔はお客さんが奏者を気に入らなければ見向きもせず、気に入る奏者には声援や拍手で盛り上げるといったことが如実に現れていたそうです。奏者としてはプレッシャーですが、舞台がそういった挑戦の場であるからこそ、かつての仁太坊の精神が今でも受け継がれているのかもしれません。
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近年では、あらゆる音楽ジャンルとコラボレーションされており、電子楽器の音量にも対応できるようエレキ三味線も開発されました。ロックバンドやジャズバンド、また民族楽器とユニットを組む奏者も現れ、色々な形で演奏されて世界でも人気の高い楽器になってきています。 私は津軽三味線ユニット 輝&輝として活動をしています。
オリジナル曲の中に民謡を取り入れたり、民謡や日本の楽曲をバンドアレンジ、コンサートの中で津軽じょんがら節の太鼓のリズムをお客様に体験していただいたりしながら、民謡の楽しさを日本全国、老若男女様々な方に伝えることを目標に演奏活動をしています!日本文化の素敵なところを発見してもらえるきっかけになったらと思っています。
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津軽三味線という楽器は、昔から時代に合わせて様々に進化を遂げてきました。伝統文化の一つではありますが、変化を恐れず発展し続けるところがとても魅力的で挑戦しがいがあるところだと感じています。
今は津軽三味線を作っている材料、例えば胴の犬皮や撥の鼈甲不足が問題で、どう未来に音を繋いでいくかということが課題になっています。需要が少ないと、研究に費用がかけられないという話も聞きました。私たち奏者ができることは、音楽を奏でて津軽三味線ファンをたくさん増やすことだと思うので、先人たちから学びながら努力を続けていきたいです。
 

武田佳泉

2008年に白藤ひかりと二人で結成した本格派津軽三味線デュオ「輝&輝」として活躍。それぞれが全国大会で日本一になった経験を持つ。現在、関東地方を中心に全国的に活動を行っている。演奏曲目は古典である民謡から、POP調・ロック調を取り入れたオリジナル曲やカバー曲まで幅広い。津軽三味線ならではの迫力と、女性らしい繊細さを兼ね備えた表現を目指して日々精進している。 全日本津軽三味線競技会名古屋大会デュオの部にて6度の優勝を果たす。

 

2017年11月15日

【伝統文化を支える表具師】

 日本の伝統的な住宅様式である床の間を構成する要素の一つに、掛軸という調度品があります。掛軸は、紙漉き職人や機織り職人によって作られた和紙や絹に書家や絵師が作品を描いて、それらにさまざまな色や模様のある絹織物を組み合わせてできたものです。この掛軸を作るのが表具師と呼ばれる職人です。
今日は日本の伝統文化を支えてきた表具師について話をしていくことにしましょう。

 「伝統文化を支えてきた」ということは、古くから存在していたことになりますが、表具師はいつごろから日本の歴史上に登場してくるのでしょうか。一般的には、鎌倉時代から室町時代にかけて発展してきた床の間という文化と茶の湯の流行の時期に現れて、徐々にその存在がクローズアップされていきます。
特に日本文化の発展に影響を与えた江戸時代では、掛軸以外の仕事もこなすようになっていきました。衝立や屏風の作成といった王道の仕事から、本の表紙の作成や装丁、暦や地図の作成、時には指物や鋳物の修理、入れ歯をつくるといった変わり種の仕事まで、培ってきた技術や手先の器用さを活かした「なんでも修理屋さん」として幅広く仕事をしていました。
お店でこなす仕事以外では、年末年始になると武家や大きな商家に出掛けて、障子や襖、壁紙などの張替えを行う内装屋さんとしても活躍しました。現在、街で見かける表具屋さんもこの時と同じように内装屋さんの仕事をしていますが、それは江戸時代からの名残といえるでしょう。

 さて、表具師が仕事をする上で必要なもので、掛軸を作る技術の他に材料や道具があります。和紙、糊、糊盆、刷毛、甕などがあげられますが、これらの道具は江戸時代以前に作られた職人を描いた絵にも登場します。昔から変わらない材料や道具を使って、表具師は今日まで仕事を続けているのです。
しかし、この道具は表具師自らが作るわけではなく、和紙は紙漉き職人、刷毛は刷毛職人といった具合に、材料や道具を作る職人も存在します。つまり、掛軸一つを作るだけでも様々な職人が関わっているのです。このようにして出来上がる掛軸は、まさに職人の粋を結集した作品、とでもいえるでしょうか。

 長い年月をかけて研鑽を積み、様々な職人が作った材料や道具とともに試行錯誤しながら発展させてきた表具師の「つくる」という技術は、今、文化財修理の現場で「なおす」技術として活かされています。
特に昨今の科学技術を取り入れた技術の発展は目を見張るものがあります。文化財を修理する技術者もまた表具師と同じようにさらなる高みを目指し、日々努力を重ねているのです。日本の伝統文化に与えた表具師の存在は、現在においてもなお、伝統文化を支える存在であることはお分かりいただけたでしょうか。

 

 

  図6 人倫訓蒙図彙 表具師アップ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Hirata 裏打ち

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

平田 茉莉子

2013年3月に神奈川大学大学院博士前期課程修了。2013年4月より神奈川大学大学院博士後期課程に在学。経師、表具師の研究をしながら、2014年から2年間杉並区教育委員会文化財係にて学芸員を務め、2016年より国立公文書館修復係に修復専門員として勤務。

 

2017年11月10日

映画解説 vol.2

再び見出された祭礼の意味

映画『秩父の夜祭り―山波の音が聞こえる―』

  川﨑 瑞穂(国立音楽大学助手)

花火と屋台

 

 関東平野西縁の山岳地帯に位置する秩父地方の民俗芸能を、私はかれこれ10年あまり研究しているが、この地方の総鎮守である秩父神社の例大祭、通称「秩父夜祭」が開催される12月1日から6日にかけての混み具合には今でも驚かされる。この祭礼を題材とした映画『秩父の夜祭り―山波の音が聞こえる―』(1990年)は、12月2日(宵宮)と3日(大祭)の屋台巡行、歌舞伎、曳き踊り、花火や、10月からの準備の様子だけでなく、一般には見ることができない神事や歌舞伎の稽古の様子も収録しており、寒風吹きすさぶ秩父盆地を鮮やかに彩る冬の祭典を、様々な角度から楽しむことができる作品となっている。

 夜祭は2016年11月30日、33件の「山・鉾・屋台行事」の一つとしてユネスコの無形文化遺産に登録されたが、これら33件の行事は、疫病を流行させる神を追い祓うという意味を持つ祭礼が多い。本作に収録されている「虫送り」や「三匹獅子舞」(共に皆野町)、また秩父神社の夏の「川瀬祭り」(本作未収録)などにも、本来は同様の意味がある。これに対し、夜祭は別名「お蚕祭り」とも呼ばれ、かつては年一度の大絹市の日に行なわれたものであったことから分かるように、養蚕に密接に関係した祭礼である。本作には当時の養蚕の習俗も収録されているため、秩父地方の「映像民俗誌」として鑑賞することもできる。

 本作のナレーションでも述べられているように、夜祭は養蚕の守り神たる秩父神社の女神(妙見菩薩)と、武甲山の男神(蔵王権現)の年一度の逢瀬を表わすとも言われているが、養蚕が衰退した現在でもなお、夜祭は秩父内外の人々を魅了してやまない。なぜだろうか。なぜ人々は屋台を曳き回し続けるのだろうか。山車(だし)のような作り物を曳き回す行事自体は、日本だけではなく世界各地にみられるものである。私自身も、「東方の三博士」を模した作り物がでるキリスト教の行事をパリ大学留学中に見たことがあるが、有名なリオのカーニバルを想像しても分かるように、作り物を皆で動かすというその行動自体は普遍的なものであり、異なるのは時代や地域ごとに加えられる「意味」である。芸能や祭礼の意味は、必ずしもそれ自体に備わっているものではないのだ。

 本作に収録されている行事の一つである「龍勢(りゅうせい)」は、祭礼の「意味」を考える上で多くのことを教えてくれる。吉田町に伝承されているこの祭礼は、竹などで造ったロケットを打ち上げる一風変わった行事であるが、秩父を舞台としたテレビアニメ『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』(2011年)に登場したため、ご存知の方も多いかもしれない。最近ではアニメにちなんだロケットも打ち上げられるようになっており、アニメによって伝統的な祭礼に新たな「意味」が書き加えられているともいえよう。このアニメのファン(いわゆる聖地巡礼者)にとって、龍勢という祭礼の意味は、そのアニメ抜きには語りえない。祭礼の意味というのは、このように刻一刻と更新されるものであり、極端に言えば、安定的かつ絶対的な「意味」というものはない。秩父夜祭の意味は、祭礼を伝承する人々、さらには参加する各時代の人々が見出していくものなのである。

屋台と花火

三匹獅子舞

三匹獅子舞

奉納繭
秩父神社に奉納された繭
龍勢
龍勢(りゅうせい)

 
3949_001▼記録映画「秩父の夜祭り-山波の音が聞こえる-」(1990年制作/34分)
映画紹介はこちら
http://www.polaculture.or.jp/movie/thickbox/tab03_009.html?sc=_map

▼無料貸出はこちら
http://www.polaculture.or.jp/movie/rental.html

※ 次回は12月10日、「新野の雪祭り-神々と里人たちの宴-」をご紹介します。

2017年11月01日

私が笛を演奏させて頂いております三味線音楽(歌舞伎で使われている長唄や清元、常磐津など)では
篠笛と能管という二種類の横笛を使用しています。
このうち篠笛にはとても日本的な美意識が見て取れます。

材料になる篠竹(女竹)は細いまま節間が長く育つためとても笛の素材に適しているといえます。
間に節を入れないためスラリとしたすがたに仕上がり装飾もほとんどしません。

このとてもシンプルで飾り気のないものを我々日本人は端正で美しいと感じます。
しかも自然のままに竹の形をほぼ残すのでそれぞれに竹の皮などの模様があり自然な景色となります。
この様な偶然の産物として出来上がる部分をとても大切なものとすします。

また、長く使って参りますと指のよく当たるところが削れたり、
孔の面が自然に取れてきたり白っぽい肌色だった表面が飴色に変ってきたりします。
このゆっくりと変化していく様子も劣化とは捉えず、味わいが深まってきたと感じます。

新しく切り出してくる竹ではなく、煤竹という素材を使って作られることもあります。
この場合は変化を楽しむことが出来ませんが、既に百年単位で囲炉裏の煤によって
自然にゆっくりと出来上がった汚れのような模様をとても美しく面白いものと見て
そのまま楽器に活かして作るのです。
日本人は時の移ろいの中でゆっくりと変化していく全てのことを、
とても愛おしく美しいものだと感ずる感性を昔から持っています。

例えば分かりやすいところですと、桜の枝がほんのりと薄紅色になってくると、そこに美しさを見出し、
咲き始めると春の訪れに胸をほころばせます。そして、桜が満開になれば木の元に集まり、
さらに花びらの散る姿にも刹那の美しさを感じます。

また桜のように目で見て取れない何十年、何百年もかけてゆっくりと移ろっていく物、
寺院のような木造建築物や茶室、庭園、お茶のお道具にも時の流れが沁み渡り
味わい深いものへと変わって来た美しさを感じます。

現代は世界がぐっと近くなり、なにかと便利になりました分、時間の流れも速く世知辛い世の中と
なってきております。それゆえ常の生活の中ではこのような感覚をなかなか見ることが出来ません。
だからこそ日本の伝統文化にふれることは現代人にとって、とても大切で、
同時にとても必要なことになってきているように感じます。

「そんなこと言っても、難しい!」と思われる方も沢山いらっしゃるかもしれません。
でも、実はそんなに難しく考えないでください。
触れてみるととても自然に踏み込んでいけるものですよ。
そんなところになにかDNAの囁きを聞けるかもしれません。

 

福原 寛

平成4年東京藝術大学音楽学部邦楽科修士課程終了。
他ジャンルの演奏家(インドバンスリーの巨匠ハリプラサード・チャウラスィアー氏、
サムルノリの金徳珠氏、オイリュトミーの笠井叡氏など)や、語りや朗読とのコラボレーション など
様々な演奏表現にも積極的に参加。歌舞伎座外部協演者として、数々の歌舞伎座舞台で活躍。
国立音楽大学、東京学芸大学、国立劇場養成科などにおいて講師を務め、後進の指導も精力的に行っている。

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2017年10月13日

 

 

五月人形・菖蒲湯・鯉幟等の風習が全国に「男児の節句」として普及しており、
これが現在の「こどもの日」につながっていることは、皆さんご存知でしょうが、
この時期には、日本の各地で凧揚げ大会も行われることについてはご存知でしょうか。

 

IMG_3702私の調査対象である「浜松まつり」もその中の1つです。
私はオーストラリア人ですが、毎年、浜松の人々に温かく迎え入れていただき、
様々な体験をすることが出来ています。
今日は、この場を借りて、毎年5月3日〜5日の3日間で行われる「浜松まつり」について紹介したいと思います。

ところで、「凧揚げ」というと日本の皆さんは「冬」や「お正月」を想像するそうですね。
しかし、浜松まつりの凧は、子供の日に揚げられます。
それは、まつりの起源に関わってきます。
浜松まつりの起源は室町時代に引間城の城主であった飯尾連竜の長男「義廣公」の誕生を祝うため、ある住民が「義廣公」を記した大凧を揚げた事とされています。
信憑性については近年疑われていますが、参加者にとっては大切なシンボル的な話です。しかし江戸時代の中期からの記録があり、とにかく長い伝統があることは事実です。

悲しい話ですが、戦時中は、一時中断されていました。
しかし、1948年に、浜松市連合凧揚会主催で第1回の凧揚げ合戦が復活しました。その2年後に、正式名称が「浜松まつり」と定められ、(2011年の震災による自粛を除き)今に続いています。

 

 

 

 

IMG_3564昼間に行われる凧揚げ大会は長男の誕生祝いのためのまつりであり、
各町の町紋(凧印)とともに、以前の1年間に生まれた長男(近年は次男・女児などでも)の名前が、6〜10畳の面積の紙が使われる大凧に記されています。

夕方・夜には「御殿屋台引き回し」と「練り」が行われます。
町内練りの基本的な特徴は、

①町紋が付いた法被と提灯で練り歩くこと、
②初子の自宅で「万歳三唱」をすること、
③お返しとして御馳走されること
です。飲酒をすることも、樽から日本酒を振り撒くこともしばしば見られます。
一晩でなんと5時間ほど、全身を酒まみれになりながら歩くことになります。

 

 

 

IMG_3674室町~戦後~現代と時代に合わせた変化もあります。
浜松まつりの参加地区の中で、特に住民の少ない千歳町は
近隣の外国人をよく受け入れていることが有名となり、
マスコミ取材が多くなっています。
出身の国は違っても、まつりを祝福する気持ちは、みんな変わりはありません。
沢山笑って、沢山しゃべります。そして、沢山の文化が交錯する。
現代の浜松まつりでは国籍も性別も関係なく、全体が一体となって「ハレ」の場を作りだしています。

 

 

 

 

サイモン・ジョン

オーストラリア出身。2006年神奈川大学大学院歴史民俗資料学研究科博士前期課程修了。
2012年同後期課程満期退学とともに、神奈川大学国際センターで勤務。

 

2017年10月10日

 映画解説 vol.1

オロチの神楽と変装=変奏の妙
―映画『神々のふるさと・出雲神楽』―

  川﨑 瑞穂(国立音楽大学助手)
 「芸術の秋」とはよくいわれるが、秋祭りに付随して各地で神楽(里神楽)が多く行われるようになるこれからの時季は、いわば「神楽の秋」であるともいえる。神楽は天岩戸神話、すなわち弟神スサノオの悪行を恐れた姉の太陽神アマテラスが岩戸に隠れたという物語の中で、芸能神ウズメが披露した舞にはじまるとされている。ゆえに「岩戸開き」の演目を重要視する神楽も多いが、今回紹介する映画『神々のふるさと・出雲神楽』で採り上げられている島根県の「出雲神楽」では、出雲に降ったスサノオによるヤマタノオロチ退治が重要な演目となっており、映画でも各地域のオロチ退治の演目がクローズアップされている。

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 オロチのモチーフの由来ともされる斐伊川(ひいかわ)の北方、島根半島に鎮座する佐太神社の芸能「佐陀神能(さだしんのう)」(島根県松江市鹿島町)の紹介から本作は始まる。ここでは鬼面のオロチとスサノオとの闘いが鮮やかに映し出されているが、次の「見々久(みみく)神楽」(出雲市見々久町)では、龍頭のオロチとスサノオとの闘いが収録されており、趣向の違いがよくわかるように構成されている。次に、世界遺産の銀山で有名な石見地方に視点を移し、同地に伝承されている「有福(ありふく)神楽」(浜田市下有福町)が紹介されているが、この神楽ではオロチが伸縮する筒状(まさに蛇腹)の衣装「蛇胴(じゃどう)」で登場し、口から火花を吹く。そして、最後の「奥飯石(おくいいし)神楽」(飯石郡飯南町・雲南市)では、龍頭のオロチが登場するが、ここではオロチが幕(蛇幕)で覆われており、さながら獅子舞のようである。


 このように、出雲地方や石見地方ではオロチが様々な形で表現されているが、本作には退治シーンが比較的長く収録されているため、それぞれの趣向をじっくり見比べることができる。オロチ退治の物語は、神話学ではアンドロメダ型、すなわち怪物に囚われた美女を英雄が救い出すという世界中に存在する類型に属するものであるが、本作を見ると、この怪物(オロチ)の「変装」が、各地域でいかに「変奏」されているのかがよくわかる。


 無論、「変奏」とは音楽の技法の一つであるが、オロチを表現する笛のメロディー、太鼓や胴拍子のリズムもまた、それぞれの神楽で巧みに「変奏」されており、一つとして同じものはない。神楽はもちろん目でも楽しめるが、その囃子の音が無ければ雰囲気を十分に体感することができない。本作では、神楽のシーンではBGMがなく、ナレーションも必要最低限であるため、それぞれの囃子の違いを聴き比べることができる。また、歌が歌われるシーンでは、ナレーションがその詞章(歌詞)を復唱しているため、どのような内容を歌っているのかもよくわかる。 


 トグロを巻くオロチが登場する有福神楽のナレーションでは「魅せるために工夫している」と述べているが、それに加え、他地域といかに違いをつけるか、すなわち「変奏」するかという工夫も、民俗芸能においてはまた重要な力のいれどころなのである。「創造」が個性なのではなく、「変奏」こそが個性であることを、民俗芸能は教えてくれる。本作を通してもし神楽に興味が湧いたならば、秋の夜長、各地を訪ね、神楽の「変装=変奏」の妙をあじわうのもまた一興である。

佐陀神能 鬼面のオロチ

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見々久神楽 龍頭のオロチ

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有福神楽 蛇胴のオロチ
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奥飯石神楽 蛇幕のオロチ


3850_001▼記録映画「神々のふるさと・出雲神楽」(2002年制作/41分)
映画紹介はこちら
http://www.polaculture.or.jp/movie/thickbox/tab03_001.html?sc=_map

▼無料貸出はこちら
http://www.polaculture.or.jp/movie/rental.html

※ 次回は11月10日、「秩父の夜祭り-山波の音が聞こえる-」をご紹介します。

2017年10月10日

【映画解説(民俗部門)講師のご紹介】

川﨑先生写真10月より、毎月10日を「映画の日」とし、弊財団の記録
映画の丸分かり解説を、専門家の先生にしていただき
ます。

今回は民俗芸能部門(全18作)の映画解説をしていた
だく、川﨑瑞穂先生にお話をうかがってきました。

(以下、財団職員:財団、川﨑先生:先生)

...

[民俗芸能の見所について]

財団:民俗芸能はどんなところが見所ですか?

先生:同じジャンルの民俗芸能でも、地域ごとに違いがあって、同じものは全くないという多様性
    が面白いと思います。

財団:「多様性」ですか!ポーラ・オルビスの理念として、「多様性を認める」というものがあります。
    内面の美を目指す弊財団にとって、やはり、多様性は重要なキーワードですね。民俗芸能
    の多様性とは、どのようなものでしょうか?

先生:そうですね・・・例えば、獅子舞。隣接した二つの地区の獅子舞を比べても、コミュニティーが
    異なるだけで衣装、舞踊、囃子などが全く違うことがよくあるんです。

財団:なるほど。

先生:かと思うと、今度は全く離れた土地で、同じようなメロディーや所作が出てくる。これについて
    話すと専門的になってしまって面白くないでしょうから、今回はお話しませんが・・・。
    私が皆さんにお勧めしたいのは、是非、ご自身の住んでいる土地だとか、お生まれになった
    土地だとかの芸能を一度見てください、ということです。そして、それをベースにして他の芸能
    を見ることで、「あ、ここが違うな/同じだな」というように鑑賞すると、これまでなかった様々
    な発見があるのではないでしょうか。

[映画の見所]

財団:公益財団法人ポーラ伝統文化振興財団の記録映画は、どんなところが見所ですか?

先生:民俗芸能の主要なジャンルを網羅的に扱っているのは、本当に素晴らしいお仕事だと思い
    ます。

財団:ありがとうございます。

先生:そして、作品ごとに着眼点が異なるため、民俗芸能の様々な側面の知識を得ることができ
    る映画なのではないでしょうか。基本は押さえつつ、さらにそれぞれの深みにまで言及して
    いる、そんな映画だと思います。

財団:では、芸能の初学者の方にも分かりやすい映画であると言えるでしょうか?

先生:はい。そう思います。是非、これから日本の芸能について学ぶ若者や、日本の文化を学ぶ
    留学生が見ると良い映画だと思います。

[フランスへの留学について]

財団:ところで、先生は日本の民俗芸能の研究がご専門ですよね?それなのに、なぜパリ大学
    (ソルボンヌ大学)に留学したのですか?

先生:はい、よく聞かれる質問です。皆さん不思議に思われるんですね。一番の理由としては、
    民俗芸能の研究にフランスの構造人類学のアプローチを応用していたためです。また、
    専攻としている「民族音楽学」の最新の知識を得るためにパリ大学の博士課程に留学しました。

財団:そうなんですね!パリへの留学と聞くと、とてもお洒落な雰囲気があります。

先生:そんなことないですよ。家、大学、図書館にしか、ほとんどいませんでしたから。研究に埋没し
    すぎて、買い物にも行けず、家の前にあったケーキ屋さんのケーキだけで生活していた時期
    もあります。

財団:ケーキだけで生活!羨ましいような、体重が心配のような・・・

先生:(笑いながら)それが、いつもより頭を使ってるからか、どんどん痩せたんです。不思議でしょ?
    ちょっと不幸自慢のようになってしまいましたが、それだけでなくパリでは、講演会や研究会で
    の第一線の研究者たちとの交流は、私にとってとてもいい刺激になりました。

[今後について]

財団:今後、どんな研究をされていきたいですか?

先生:そうですね、これから記録映画の解説を書く中で示していけたらと考えておりますが、具体的
    には、来年1月に出版する著書(博士論文)までは秩父地方の神楽を研究していましたので、
    今後は地域・ジャンルを広げて民俗芸能の音楽を採取・分析し、民俗芸能の音楽の様々な繋
    がりを研究していきたいと思っています。


■川﨑瑞穂先生
<経歴>
2014年9月~2015年7月 パリ第4大学(ソルボンヌ大学) 音楽学博士課程 留学
2016年3月 国立音楽大学大学院 音楽研究科 博士後期課程 音楽研究専攻 音楽学研究領域 修了

<受賞歴>
2011年3月 国立音楽大学「有馬賞」
2012年7月 日本ジラール協会「ライムンド・シュヴァーガー記念論文賞」
2013年3月 国立音楽大学大学院「最優秀賞」
2013年11月 遠野文化研究センター「遠野文化奨励賞(佐々木喜善賞)」
2015年11月 日本風俗史学会「日本風俗史学会研究奨励賞」
2016年4月 日本科学協会「笹川科学研究奨励賞」
2017年2月 川崎市、川崎市教育委員会、川崎市文化協会 「川崎市文化祭奨励賞」

<著書>
(共著)『遠野学 vol.3』遠野文化研究センター、2014年
(共著)Apocalypse Deferred: Girard and Japan, University of Notre Dame Press, 2017.
(単著、刊行予定)『徳丸流神楽の成立と展開―民族音楽学的芸能史研究―』第一書房、2018年刊行



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