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2018年05月25日


映画解説(工芸部門)vol.5

白線のコスモス — 糸目にみる秩序の美

映画『山田貢の友禅—凪—』

  大友 真希(染織文化研究家)
①≪糯糊点連線糸目友禅着物「凪」≫(全体)

友禅染は、分業制が主流にもかかわらず、なぜ全工程を一人で行うのかと尋ねられ、「自分の好きな線を引くため」と山田貢は答えている。

友禅の人間国宝・山田貢(やまだみつぎ・1912−2002)は、岐阜県岐阜市に生まれ、15歳のときに友禅の道へ入った。叔父の紹介により、名古屋松坂屋で友禅制作をする中村勝馬(1894−1982)の下に付き、友禅染や蝋染(ろうぞめ)を学んでいった。近代化が急速に進むなか、中村は友禅の創始期にみられた「自由で豊かな精神」に真意を求め、単なる商業的物品ではなく「美術品」としての友禅に理想を追うようになる。中村から強く影響を受けた山田は、昭和4年(1929)中村とともに上京し、昭和26年(1951)の独立後、一友禅作家として、作品に「自分独自の雰囲気」を表現するようになっていった。



映画『山田貢の友禅—凪—』は、山田が東京世田谷の自宅にて、着物作品「凪(なぎ)」を制作する過程が記録されている。友禅染は、まず、糯粉(もちこ)と糠(ぬか)を原料とする防染糊——糯糊(もちのり)を使って布に模様を描く。糊の乾燥後、その上から染料で色を挿す。布に染料が定着した後、糊を洗い流すと、糊を置いた部分は染まらず、白く地色が残ることで模様が浮き出る。友禅は、糊の質と糊置きの仕事が仕上がりを決めるといっても過言ではない。図案の良し悪しは言うまでもないが、良い図案でも、糊を置いた「糸目(いとめ)」が不味ければ、友禅としての価値は下がる。

 



網干(あぼし)の風景を描いた作品「凪」では、藍色との対比でくっきり浮かぶ交差した無数の白線が、画面に清々しい印象を与えている。山田は制作のはじめに実寸の下絵をつくる。網目は定規を置いて鉛筆で線を引き、その上からサインペンを使ってフリーハンドでなぞる。網の結び目を表現するように、強弱をつけながら一本一本綿密に線を引く。続いて下絵の上に布を重ね、水溶性の青花(あおばな)をつけた細筆で、再び同じ線を写し描く。その後、ひと月以上かけて、すべての線に糸目糊を置いていく。糸目糊で引かれた線は、文字通り、糸のように細い。

 

 

 


下絵づくりから糊置きまでに、山田は5回線を引く。作品の出来を左右するのは糊置きの線だけとも言える。しかし、山田はそこに至るまでの4回、すべての線を丹念に引く。何度も引くことで、自らの手に「線」の感覚を染み込ませていくように。この仕事を経ることで、山田は友禅で重要な糊置きにおいて、自分のイメージ通りの自由な線を引くことができたのだろう。「自由で豊かな」糸目を出すために、その線を繰り返し体に刻む。体だけではない。山田の丁寧な仕事を見ていると、その精神にも、幾重にも重なった美しい糸目が引かれているように思えた。

 

 

 

 

 

≪ 糯糊点連線糸目友禅着物「凪」≫(全体)
1995年 ポーラ伝統文化振興財団蔵

②≪糯糊点連線糸目友禅着物「凪」≫(糸目部分)

≪ 糯糊点連線糸目友禅着物「凪」≫
(糸目部分)

③原寸下絵を描く山田貢

原寸下絵を描く山田貢

④糸目糊置き

糸目糊置き

※今回掲載した写真は、ポーラ伝統文化振興財団による撮影


0193_001記録映画「山田貢の友禅-凪-」(1995年制作/34分)
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※次回は6月26日、「彩なす首里の織物-宮平初子-」をご紹介します。

2018年05月20日

宮崎は神楽の宝庫である。日本の神楽を代表する高千穂や椎葉といったところでは今も頑なに女人禁制を守るところが多い。修験系の神楽において、女人禁制はつきものなのだが、九州全域に目を移すと、長崎県対馬の命婦舞、五島列島の市舞などは、巫女神楽が主流となっている。 それでは、宮崎の神楽に巫女神楽がなかったのかと言えば、そうではない。近世に巫女舞が舞われた記録は祓川の神舞(高原町)にも認めることができる。
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今ではどこでも伝統芸能の後継者不足に悩まされている。山間へき地は過疎化に伴う人口減少で舞手そのものがいなくなっているのが問題なのだが、都市部においてはまた、別の要因が存在している。それは、旧集落と振興住宅地との関係である。宮崎市内では30近い地区で、春神楽が伝承され、山間部に比して勝るとも劣らない内容豊富な舞が伝承されている。ところが、見学者も少なければ伝承者も厳しいのが実状だ。その理由を探って調査したところ、地元の祭りに参拝するのではなく、イベントの神楽に足を向ける方が多いことがわかった。理由は、「よそものが、神社の氏子さんのお祭りに入るのは遠慮したほうが良い」「イベントなら気兼ねなく楽しむことができる」というものだった。神楽伝承の地元からは「近くに住んでいても神社に参りにきてくれない」「新たな転入者は神楽を好きな人がすくない」という声があがり、両者の意思疎通が残念なことになされていないことが判明した。
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つい先日訪れた、長崎県五島市福江の住吉神社の神楽で、興味深い事例を見つけた。なんと、ほとんどが子供たちだけで、荒平・獅子舞など様々な舞が男女の別なく立派に舞われて伝承されているのだ。しかも、笛や太鼓などの楽器も4歳から小学生が主体で、中高生も混じっている。子供たちに神楽を教えているのは、宮司の奥様やご家族の方々。小学校にお願いして、氏子圏外からも希望者を募っているという。宮司曰く「神楽はアマテラスの御代より女性が舞っていたもの。女人禁制などあってはならない」と・・・。

つい最近、大相撲で女性が土俵に上がることの是非が取り沙汰されたばかりだが、日本の伝統とされる「女人禁制」について、どこまで正確な情報を国民は有しているのだろうか?

女人禁制を解けば、神楽の伝承者は必然的に倍増するのに・・・

 離島での神楽の伝承は別の意味でも深刻だ。それは、大学進学・就職で若者のほとんどが島離れを余儀なくされるからだ。そこで生まれた知恵が、氏子圏内外を問わず、幼児から小中高校生までを集め、子供たち主体の神楽を作り上げたことだ。

子供たちの世界に、地元民・転入者の区別はあまり存在しない。幼稚園・小学校などの交友関係で文化伝承の輪を自然と広げていくことが可能となる。

 実は、昨年9月、緊迫する半島情勢の最中、韓国から海の神を祭るイベントに招聘され、同神社の最年少4歳の女児を含む巫女さん4名を引率することができた。常に新しい仲間を求めて、神楽を舞い続ける島の女性たちの芯の強さを垣間見る思いがした。

永松 敦

1958年 大阪府生まれ

総合研究大学院大学文化科学研究科博士後期課程修了
博士(学術)
専門:狩猟民俗・民俗芸能 在来野菜
現在、宮崎公立大学人文学部教授(民俗学)

最近は民俗知を活かした地域創生を実践しており、宮崎市の地域のお宝発掘・発展・発信事業において、大宮地域自治区の景清伝説・神楽・在来野菜・自然などを活用して地域づくりに従事している。

著書 

『狩猟民俗研究―近世猟師の実像と伝承―』(平成15年)法蔵館
『九州の民俗芸能(海と山と里と交流と展開の諸相)』(平成21年)鉱脈社     ほか

 

2018年05月15日

画像1:修復用に製作した竹釘

仏像は、仏教が日本に伝来した6世紀より、国内で連綿と造られ続けてきた信仰対象像です。日本の仏像は、豊富にあった樹木を素材とした木彫仏が圧倒的に多く、古いものは修理を重ねながら、千年以上の月日を経て現在まで大切に守られてきました。また、明治時代以降になると、仏像は文化財としての側面も併せ持つようになり、昨今、仏像修理を専門とする修復家たちには、伝統的な技法と文化財の修復理念を併せた処置を施すことが求められています。
【写真1:仏像修復用に製作した竹釘】

画像2:江戸時代の仏像の頭部を解体した様子

仏像を造る技術も、伝統的な技法が長く受け継がれてきました。解体修理をすると、その技術を細かい部分でも感じることがあります。その一例をご紹介します。

木を寄せ合わせて造られた仏像は、接合に鎹や釘を使用します。釘は、鉄製や銅製の他に竹製のものが使われることもあります。修復時にも竹釘を新調して使用することがあるため、修復家は自身でこれを製作します。この竹釘ですが、先端に向けてただ細く尖らせるだけではなく、一つの面に表皮の部分を残すひと工夫をしておきます。表皮の部分は堅いので、残しておくことによって折れにくくなるのです。
【写真2:江戸時代の仏像を解体した様子(頭部)】

画像3:拡大(竹釘を使用している) この表皮を残した竹釘ですが、仏像を解体すると中から同じように表皮を残した同じ形状の昔の竹釘が出てきます。様々な時代の仏像から、同形状の竹釘が出てくるのです。古くから、仏師や修理に携わった人々は皆同じ技法で竹釘を作っていることがわかります。
【写真3:拡大(竹釘が3本使われている)】

画像4:修復の様子 些細な事例ではありますが、修復作業を通じて過去との繋がりを感じることもあるのです。仏像修復家は、大切に残されてきた仏像を、技術も含めて現在から未来へと繋げるために修理に勤しみながら日々技術向上にも励んでおります。
【写真4:修復の様子】

小室 綾

京都造形芸術大学歴史遺産学科文化財科学・保存修復コース卒業。
卒業後、吉備文化財修復所に修復所員として勤務。
現在は、仏像修復家として寺院など現地での修理を中心に活動している。

2018年05月02日

映画解説(工芸部門)vol.4

紬織の風合いとはなにか

『紬に生きる-宗廣力三-』

  大友 真希(染織文化研究家)
①

 

映画『紬に生きる-宗廣力三-』では、「紬縞織・絣織」(つむぎしまおり・かすりおり)の人間国宝・宗廣力三(むねひろりきぞう・1914-1989)が終生にわたり紬に込めた、厳しくも温かい“心”が描かれている。全編を通じて「風合い」という言葉が幾度も語られるが、この「風合い」を手がかりに宗廣の言葉や作品を見ていくと、宗廣が求めた紬織とは一体何だったのかがわかるのではないか。

 

宗廣作品は、意匠のほとんどが縞・格子柄と幾何学柄で構成されている。縞・格子は紬織の基本であるが、そこに経緯絣(たてよこがすり)で丸文、菱文、立涌文(たてわくもん)、竹文などの文様を組み合わせて緻密な意匠を創り出している。文様の多くは自身が考案した染色方法“どぼんこ染”で染められたもので、文様の色・形に濃淡の“ぼかし”が入ることで、多層的な奥行を感じさせる。

 

ところで、紬といえば結城(茨城県)や信州(長野県)などが産地として広く知られるが、昭和初期まで全国各地——養蚕の盛んな地域では、農家の女性たちが家族や自分の普段着用につくっていた織物であった。蚕の飼育と繭の生産に際し、絹(生糸)として売り物にならない屑繭から真綿(まわた)をつくり、それを指で紡ぎ糸にして着物を織った。古くから、絹­の「美しい光沢」と「ひんやりとして滑らかな肌触り」は支配階級の特権であったが、「つつましい艶」と「温かみのある肌触り」という、別の絹の風合いを庶民は知っていたのである。

 

宗廣は、庶民が感じていた紬の風合いを自身の作品に求めていたのではないか。長年思いを馳せていたエリ蚕紬(えりさんつむぎ)に取り組む場面では、「紬は毛羽が出やすい。二、三年してくると渋くなる。エリ蚕の織りあがったものが既に二、三年した紬の良さを出している」と語る。つまり、紬は、数年経った(身につけた)後の方が本来の「美しさ」や「温かみ」が出ると考えていたのだろう。

 

宗廣の故郷・岐阜県郡上八幡(ぐじょうはちまん)でも、かつて農村の衣生活を支える織物として紬が織られていた。それは、山々の草木を染料に糸を染め、地機(じばた)で織った無地か単純な縞柄であり、「現代の私たち」が見れば「ざっくりとした素朴な風合い」だと感じるに違いない。

 

宗廣が郡上で紬を始めたころ、土地の老女が「色は冴えて、堅牢で、やわらかくて、こし強く、深みがありて、あたたかく」と紬を表現したという。近頃、宗廣作品《茜染エリ蚕紬やたら絣着物》を間近で見させていただいたが、制作から三十年を経たいまも、茜で染めた深紅色は「冴えて」いた。エリ蚕紬の「こしのある柔らかさ」と「温かみ」にも触れた。目の前の紬は、郡上の人びとが身につけていたかつての紬とは違う。しかし、まさしく、郡上の老女が宗廣に語った「紬の風合い」が、そこにあるのをはっきりと感じたのである。

図案を描く宗廣力三 1988年

②

《丸に華文茜どぼんこ染吉野格子絣着物》(全体)
1988年 ポーラ伝統文化振興財団蔵

③

《丸に華文茜どぼんこ染吉野格子絣着物》(部分)

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《茜染エリ蚕紬やたら絣着物》
1988年 ポーラ伝統文化振興財団蔵

※今回掲載した写真は、ポーラ伝統文化振興財団による撮影


0168_001記録映画「紬に生きる-宗廣力三-」(1988年制作/32分)
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※次回は5月25日、「山田貢の友禅-凪-」をご紹介します。

2018年04月16日

古代東アジアの儀礼音楽について、国家制度の視点から研究しています。中国の儀礼音楽は日本や朝鮮半島にも大きな影響を与えましたが、その歴史的背景を知ることは、わたしたちの日本理解を助けるものにもなるでしょう。
こうした儀礼音楽の研究をする前は、東アジアの軍事・財政史に興味がありました。そうした軍事、財政をはじめとする国家制度の視点から、東アジアの音楽史を新たに読み解いてみようというのが、私の研究スタンスです。

上記の研究スタンスは、音楽を芸術の視点のみからとらえた場合、邪道と映るかも知れません。しかし、新しい研究は、それまで人が忌避して手をつけてこなかったところから始まります。日本の東アジア史研究は、軍事・財政史に多くの蓄積があるので、自分がその方面の勉強をしていた頃は、偉大な先人の残した枠組みの隙間埋めをしていたように思います。今は新たな視点から、音楽史を再構築していくことで、そこから解放されつつあるというのが、私の正直な思いです。

戸川先生

このように国家制度の視点から日本の儀礼音楽をみると、従来の研究は、個別の楽曲・楽器等に焦点をあてたものであり、当時それが演奏される場が如何なるものであったのかということに、あまり深い配慮がなされてこなかったように思います。
その原因は、特定の儀礼音楽のみに焦点をあてた個別研究が戦前から蓄積されたのに対し、その演奏の場である王朝儀礼の研究が脚光を浴びるのは戦後、なかでも歴史学が文化人類学等の影響を受けた80年代前後からであったためでした。
こうした儀礼と音楽を結びつける新たな視角から、東アジアにおける儀礼音楽の実態を明らかにできれば、いわゆる日本固有の伝統音楽とされているもののうち、何が中国、朝鮮半島と共通し、何が真に特異なものなのかを明確にする一助となるでしょう。
例えば、古代中国の儀礼音楽は、皇帝が中国に君臨し、周辺国を服属させていることを音楽によって表現するものでした。日本の儀礼音楽も、こうした中国の儀礼音楽の影響を受けています。ただし、日本では、大陸からもたらされた外来音楽を天皇儀礼の中に新たに位置づけ直し、自国を中心とする新たな儀礼音楽を創ったところに大きな特徴がありました。
一方、朝鮮半島では、君主である王が、中国皇帝より継続的に冊封を受けていたため、日中と異なるユニークな儀礼音楽が創られていきます。このように伝統文化を国際的に俯瞰する研究を続けていけば、日本の儀礼音楽を東アジアの中に位置づけ、とらえ直していくことにもつながっていくように思います。
そうした比較研究を通じて、日本における伝統文化の理解をさらに深めていきたいというのが、私の願いです。

戸川 貴行(とがわ たかゆき)

日本学術振興会特別研究員PD(東京大学)、愛知大学国際中国学研究センター研究員などを経て、現在、お茶の水女子大学基幹研究院人文科学系准教授。平成24年度東方学会〈内閣府所管〉賞受賞。数々の著作を発表しているが、主な論文としては、『東晉南朝における傳統の創造』(汲古叢書)が挙げられる。平成29年度公益財団法人ポーラ伝統文化振興財団の助成事業にて、「前近代東アジア儀礼音楽の比較研究」が助成採択。

 

 

2018年04月10日



映画解説 vol.7

燃え盛る祭りの想像力

映画『炎が舞う-那智の火祭り-』

 

川﨑 瑞穂 (神戸大学)

火祭りの大松明

日常みかけることが少なくなった今日でもなお、祭りに出掛ければしばしば出会うものの一つに、火がある。思い出のワンシーンに祭りの火がある人もいるはずだ。さらに火が主役ともいえる祭りは、日本だけでなく世界各地に伝承されている。今回紹介する映画『炎が舞う―那智の火祭り―』は、和歌山県東牟婁郡那智勝浦町(ひがしむろぐんなちかつうらちょう)に鎮座する熊野那智大社の例大祭、通称「火祭り」をダイナミックに描き出した作品である。

 

この祭礼は、扇神輿(おうぎみこし)という特殊な神輿を用いることから扇祭(おうぎまつり)と呼ばれており、巨大な神輿12体をウェーブのように立ち上げる扇立(おうぎたて)のシーンは壮観である。この神輿を祓い清めるために火を用いることから「火祭り」とも呼ばれているが、本作に映し出される火は全て、7月14日の祭礼当日、朝5時におこされる忌火(いみび)から生まれてくる。那智大滝の御滝本(おたきもと)に鎮座する飛瀧神社(ひろうじんじゃ)では、この火を大松明に点火する儀式が行われる。そして、「オメキ」と呼ばれる渡御の開始を告げる歓声が交叉する中、伏拝(ふしおがみ)という場所から降りてくる12体の神輿と、御滝本から上がってくる12本の大松明が石段の上で出会い、クライマックスをむかえる。

  

なぜ人は祭りに火を採り入れたのだろうか。無論、火の意味が祭りによって様々であることは、火を見るより明らかだ。那智の火祭りは、大松明の「火」と、神輿によって表現される那智大滝の「水」の祭りであると、ナレーションでは語られている。度々登場する聞きなれないキーワードは逐一画面に表示され、この火と水からなる画廊を逍遥する際の導き手となってくれる。祭礼を理解する近道は、各部分が何を象徴するのかを知ることであろう。「記録映画」といういささか学問的な映画の使命は、その水先案内に尽きると言っても過言ではない。しかし、象徴を知るだけでは火祭りの秘密を解き明かすことはできない。われわれはナレーションの行間に侵入し、祭りの想像力の最深部に潜り込んでみよう。

 

本作はこの祭りのクライマックス、赤々と燃える大松明のシーンから始まる。突然画面いっぱいに横溢する火。それは幼き頃に課せられる最初の禁止の一つであり、ゆえに観る者の心に直截的に働きかけ、魅惑する。火祭りは、その「火」の原体験を想像力の源泉として、鮮やかに開花せしめた祝祭であるといえるかもしれない。この喧騒のシーンに、室町時代の面影を遺すとされる典雅な「那智田楽」のシーンが交叉する。ここではあえてナレーションを廃することで、芸能と喧騒、秩序と無秩序、楽音と噪音といった対立を巧みに表現している。ここから視線は空高く上昇し、熊野の山々を一望する。囃子や掛け声を運ぶ「空気」、それらを包み込む熊野の「大地」、そして「火」の神である熊野夫須美大神(くまのふすみのおおかみ)と那智大滝の「水」。これらは祭礼を生み出した人々の、物質的な想像力の「四元素」であるともいえよう。絶妙な場面転換によって描出される祭りの想像力に沈潜するのも、本記録映画を楽しむ一つの方法かもしれない。

 

 

 

火祭りの大松明

②那智大滝

那智大滝

③那智田楽

那智田楽

那智の森

熊野の森 ※本写真は川﨑瑞穂による撮影


※クレジットのない写真は、すべてポーラ伝統文化振興財団による撮影


0125_001記録映画「炎が舞う-那智の火祭り-」(2001年制作/32分)
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※次回は5月10日、「若衆たちの心意気-烏山の山あげ祭り-」をご紹介します。

2018年04月02日

 

秋田県鹿角市花輪では、毎年8月16日~20日にかけて幸稲荷神社(さきわいいなりじんじゃ)の例大祭が行われます。特に8月19日~20日は通称「花輪ばやし」といい、各町の囃子を乗せた豪華絢爛な十台の山車が、二日間ほぼ徹夜で巡行します。  
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秋田県鹿角市花輪は、秋田県の北東部、奥羽山脈の懐に形成された断層盆地(鹿角盆地)に位置し、東側は岩手県の県境と、北は青森県と県境を接します。

 花輪の8月は、花輪ねぷた(8月7日、8日)から始まり、個々の家の先祖祭りである盆行事(8月13日~16日)、「花輪祭典」とも呼ばれる幸稲荷神社の例大祭(8月16日~20日)、花輪の町踊り(8月26日~9月8日)と、次々に民俗行事が行われ、総して「花輪祭り」と称します。19日~20日に屋台で演奏される祭囃子が花輪囃子です。以前は「はやし」や「ギオンばやし」といわれていましたが、昭和以降全国的に知られるようになり、「花輪囃子」「花輪ばやし」という呼称が生まれました。現在では「花輪ばやし」が例大祭の通称として呼ばれることが多くなっています。ここでは、例大祭のことを「花輪祭典」、囃子のことを「花輪囃子」と称してお話します。
 
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一つの囃子を演奏するのに同じ町の人々によって伝承されていることが多いのですが、花輪囃子は太鼓と鉦は各町の若者、笛と三味線は近隣地域に住む「芸人さん」と呼ばれる人々によって演奏されます。

各町の若者は子どものころから演奏を聞いておりリズムは覚えているため、小学生になって本格的に稽古を始めると、すぐに叩ける場合も多いそうです。はじめは、3列目の「中太鼓」から叩きはじめ、花形である「大太鼓」の演奏を目指して町内の若者たちが切磋琢磨して稽古します。若者会は42歳で卒業します。30代以降は祭りの運営が中心となるので、囃子の奏者は10代~20代が中心となり、活気あふれる演奏をします。
 
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 一方「芸人さん」は、長い人だと60年以上同じ町で演奏しています。「芸人さん」はそれぞれ師匠がおり、師匠から個別に笛や三味線を習って、師匠の采配で演奏する町の屋台が決定します。師匠から仕込まれる芸はとても厳しいものだったといいます。「芸人さん」の系譜をたどっていくと、「あやめの市」という名にあたります。「あやめの市」は座頭であったといい、「芸人さん」はその系譜上にいます。昭和60年代頃までは盲目の奏者も「芸人さん」を務めていました。現在の芸人に座頭はいませんし、本職を持ちながら花輪祭典のときだけ笛や三味線を演奏していますが、以前は芸を生業としている人たちが演奏していました。

このように花輪囃子は、年若く情熱的な演奏をする太鼓と鉦の奏者と、長年にわたり同じ町で演奏することで、その町の囃子の特徴を町の住民よりもよく知る「芸人さん」によって伝えられています。情熱だけでは崩れてしまうかもしれない囃子のクオリティを「芸人さん」がひっぱり、町の若者たちが若さとパワーある演奏で訪れた見物客たちを魅了します。技術と情熱が混在した花輪囃子をぜひ一度ご覧ください。

なお花輪祭典は、2014年に「花輪祭の屋台行事」として国指定重要無形民俗文化財に指定されています。
 

 

高久舞(たかひさまい)

國學院大學文学部非常勤講師。

 

日本大学芸術学部演劇学科卒業後、國學院大學大学院文学研究科にて民俗学を学ぶ。

20163月に國學院大學にて学位取得(民俗学)。専門は民俗芸能、伝統芸能。

201712月民俗芸能学会「本田安次賞奨励賞」受賞。

 民俗芸能・伝統芸能の研究とともに若手邦楽グループ「和っはっは若衆組」メンバーとして邦楽・日本舞踊のレクチャー公演を行っている。

2018年03月27日

 

 

当財団企画の第49作記録映画「蒔絵 室瀬和美 時を超える美」が完成し、
日本語版に引き続きまして、4月2日(月)より英語版の貸出もできるようになります。
URUSHIに興味のあるみなさま、室瀬和美先生の蒔絵に興味のあるみなさま、
ぜひ、ご高覧くださいます様、ご案内申し上げます。

◎「蒔絵 室瀬和美 時を超える美」について
    http://www.polaculture.or.jp/movie/list.html

◎ポーラ伝統文化振興財団記録映画貸出のご案内について
    http://www.polaculture.or.jp/movie/rental.html

 

2018年03月25日

映画解説(工芸部門)vol.3

絹帯をめぐる音の風景

映画『筬打ちに生きる−小川善三郎・献上博多織』

  大友 真希(染織文化研究家)
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 「帯の値打ちは色や柄だけでなく音にもある」と小川善三郎(1900-1983)は語る。

 

 本映画の終盤に、小川が織り上げた帯を織機から外す場面がある。しっかりと織り込まれた厚みのある絹帯が、小川が手元に巻き取るたびに、シューッ、シューッ、と重厚な音を立てる。絹鳴りである。小川がつくる献上博多織は、織り味が良いというだけでなく、気持ちの良い絹鳴りがするのだ。上質な絹糸を用い、長年の修練をともなった手織り特有の音が、小川の帯にはある。

 

 機織りは、昔から男性よりも女性に結び付けられる仕事としておこなわれてきた。祖母や母の姿をみて、糸作り・機織りの仕事を体得することが女性として一人前と認められる要素の一つであり、家のため、夫や子供のために縞や絣模様を工夫して織ることは、女性たちの楽しみでもあった。糸紡ぎ・機織りをする女性たちの姿は日本の原風景の一つであり、糸を紡ぐ糸車の音、機を織る音が家々から聞こえてくる、そういう「音の風景」が多くの土地に存在していた。女性たちの手により綿々と織られてきた布は、やわらかさをもち、身につける者に温もりを感じさせたことだろう。

 

 一方、博多織では、経糸(たていと)の密度が非常に高く、緯糸(よこいと)を打ち込むには強い力が必要とされたため、昔から、織り手には男性が採用されてきた。小川の織る博多織は、厚みを持った強靭な織物である。映画には、小川がひたすら織機と向き合う姿が映し出されるが、強い力を入れて織る様子は見られない。畦(あぜ)を上下させ経糸にカラカラカラと杼(ひ)を通す。タンタンと緯糸を打ち込んだ後、他方の畦を上下し、タン、ターンと筬打ち(おさうち)をする。畔を上下させ、経糸に杼を通し、筬を打つ冴えた音が、繰り返し機場に響く。小川の呼吸に合わせて、八千本もの経糸が縺れることなく織り進んでいく。糸・織機との掛け合いに無心で取り組む姿がそこにある。決して「力」を入れているのではなく、経験によって自身の身体に染み付いた織りの息づかいがそうさせている。

 

 小川は、一連の音色を基に、織りのテンポをとっているのではないだろうか。それは、かつて女性たちが歌った機織唄のように。唄により一定の調子で作業を続けることができ、反復仕事の退屈も避けられる。また、機織唄は、「いい布が織れるように」との願いや祈りが込められていて、本来は、機織神へ捧げる唄でもあるのだ。神聖な気持ちで機織りに臨むことがあたりまえとされていたからであり、小川にもその心があることは仕事に向かう姿勢からも伝わってくる。

 

 小川は優れた作品のことを「気合いの籠(こも)った帯」と呼ぶ。「厚みのある強靭な帯」とは、男性的な織物だといえるかもしれない。しかし、小川の織る献上博多織は不思議とやわらかい。その理由は、気合いを籠めた呼吸が奏でるその「音」にみることができるだろう。

小川善三郎 1982年

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機織り(畦を上下させ、経糸に杼を通し、緯糸を打ち込む)する小川

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織り上がった帯を検品する小川(右)と家業を継ぐ息子の規三郎(左)

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小川善三郎《三献上博多織帯》 1982年
ポーラ伝統文化振興財団蔵


※今回掲載した写真は、ポーラ伝統文化振興財団による撮影


0097_001記録映画「筬打ちに生きる-小川善三郎・献上博多織」(1982年制作/33分)
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※次回は4月25日、「紬に生きる-宗廣力三-」をご紹介します。

2018年03月10日

映画解説 vol.6

曳山、あるいは東西文化のタペストリー

映画『―琵琶湖・長浜―曳山まつり』

  川﨑 瑞穂(国立音楽大学助手)

①曳山全体像

祇園祭、高山祭に続く「日本三大曳山祭」の一席、ここに長浜曳山祭と秩父夜祭のどちらを入れるかは意見が分かれる。どちらもユネスコの無形文化遺産「山・鉾・屋台行事」に名を連ねる甲乙つけがたい祭礼であると、ここでは軟着陸しておこう。今回紹介する映画『―琵琶湖・長浜―曳山まつり』は、前者を題材とした記録映画であり、特に子ども達によって演じられる「こども歌舞伎」を、稽古から本番まで描き出している。歌舞伎といえば、後者の秩父夜祭も負けず劣らず有名であるが、映画『秩父の夜祭り―山波の音が聞こえる―』と本作を見比べて、どちらを三大曳山に入れるかを密かに考えるのは、観る者に許された自由であろう。

 

琵琶湖の北、滋賀県長浜市で毎年4月9~16日にかけて開催されるこの祭礼は、町衆の内、「子ども役者」「若衆」「中老」という三つの異なる世代が行う祭礼である。町衆が集まって祭礼の相談をする場面に続いて、曳山の絵画や、セピア色の古写真が多数映し出される。春休みになると、子ども役者の稽古がはじまる。役者には幼稚園児もおり、振付の先生から指導をうける彼らの後ろでは、若衆がサポートをする。稽古で「チリカラスッタータッポッポ」といった不思議な声を出しているが、これは三味線の「チントンシャン」のような、音楽を覚えるための「唱歌(しょうが)」という歌である。曳山祭の歌舞伎は「義太夫節」という三味線音楽の伴奏で演じられるが、義太夫節の映像に、なぜかバロック音楽、すなわちバッハやヘンデルといった作曲家に代表される時代の西洋音楽が合わされる。本作ではバロック音楽やルネサンス音楽が度々登場し、曳山の曳行(えいこう)のシーンでは、なんと祭り囃子や掛け声に重ねあわされている。なぜだろうか。

 

ヒントは随所に示されている。16世紀末に遡るとされるこの祭礼では、曳山に舶来のタペストリー(織物)が飾られているが、これは祇園祭と同じく、町衆が財をなげうって買い求めたものである。また本作冒頭では、鉄砲をはじめて造った工業の町として長浜が紹介されているが、「鉄砲」や「織物」といった長浜を象徴する外来文化の流入期は、およそ西洋音楽史のルネサンス(15~16世紀)からバロック(17~18世紀半ば)にかけての時代にあたっている。本作を観る者は、曳山とタペストリーという視覚だけではなく、聴覚によっても同時代の文化のコントラストを楽しむことができるのである。

 

曳山は長浜八幡宮に集まり、いよいよ「狂言奉納」となる。子ども役者の演技とそれを熱心にみる大人たち。ナレーションでは、町衆が創り出した趣向として歌舞伎が紹介されているが、歌舞伎もまた時を同じくして生まれ、江戸期を通じて発展した芸能である。ヨーロッパの織物を飾り、歌舞伎を載せた曳山のごとく、およそ文化というものは何らかの「他なるもの」の集合体である。それは舶来のタペストリーよろしく、様々な種類の糸で織られた織物であり、本作はその東西文化の綴織(つづれおり)を、映像と音楽の組み合せによって巧みに表現している。バロック音楽の「通奏低音」のように本作と曳山祭を貫流する異種混淆性、「文化のオリジナルとは何か」という問いが、そこからかすかに聴こえてくる。

長浜の古い町並みと曳山

②子ども歌舞伎の練習風景

子ども歌舞伎の練習風景

鳳凰山-002()

鳳凰山の見送り幕(タペストリー)
※写真提供: 長浜市曳山博物館

④子ども歌舞伎の上演風景

子ども歌舞伎の上演風景
※クレジットのない写真は、ポーラ伝統文化振興財団による撮影


0064_001記録映画「-琵琶湖・長浜-曳山まつり」(1985年制作/32分)
映画紹介はこちら
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※長浜曳山祭の詳細は、機関誌「伝統と文化」40号をご覧下さい。
詳細はこちら

※次回は4月10日、「炎が舞う-那智の火祭り-」をご紹介します。

2018年03月01日

 

私は民俗芸能の詞章の研究や詞章を基にした作詞の仕事をしています。今日は、私が作詞し、平成29年3月7日、紀尾井ホールで作品として発表された、大和楽「四季の雨傘」を題材に、民俗芸能(広島県の田植唄の詞章の一部)を取り入れた詞章のあり方、新しい形での言葉と文化の伝承についてお話ししたいと思います。

 一昔前であれば当たり前のように様々な芸能から長唄や端唄、地歌などに詞章が取り入れられ、形を変えて伝承されてきました。しかし、近年の新作ではその傾向が薄くなっているように思われます。以前からこれを危惧していた私は、紀尾井文化財団の「邦楽作品の新作作詞家を育てる」という目的で開講された「紀尾井邦楽塾」を、平成26年8月に受講し、竹内道敬先生、徳丸吉彦先生、渡辺保先生らの指導を仰ぎ、広島県の田植え唄の詞章を摂取した「四季の雨傘」を完成させました。
稲垣1

中国山脈を挟むようにして広島県北部と島根県南部の山間部落で行われている「花田植え」と呼ばれる民俗芸能があります。

 「花田植え」といえば、2011年にユネスコ無形文化遺産に登録された広島県山県郡北広島町壬生の花田植えが有名すが、今回、私が大和楽「四季の雨傘の詞章として摂取したものは、その壬生の花田植えが行われる千代田町の隣町に位置する、広島県安芸高田市美土里町のもので、本郷(本村)から、北地域にかけて歌い継がれてきたものの一部です。

 美土里町史編集委員会『美土里の歴史と伝説』(1972)によれば、美土里町の「花田植え」の歴史は文政2年まで遡るとされています。
  IMG_1582

もともと、「花田植え」の歌は田を守る神である「さんばい」お迎えする行事でしたが、「さんばい」をお迎えする為の歌から、徐々に様々な歌詞が生まれていったと考えられます。

 美土里町史編集委員会『美土里の歴史と伝説』(1972)の中から、今回の大和楽の詞章で用いた歌詞の元歌を引用してみましょう。

  稲垣2 稲垣3

さて、田植え歌の「つるらんつるらんぴんつるらん」という歌詞をみると、座頭(盲人音楽家)が琵琶を弾いた時の擬音である、ということが考えられます。私はこの擬音の特徴を他の音の擬音に置き換えられないだろうか、と考えた。

 擬音について考えた際、「花田植え」の歌詞の全文に「水」に関する描写が多いことに気がつきました。その為、この「つるらんつるらんぴんつるらん」という擬音を「水」に関する別の表現に用いることができないだろうか、と次に考えました。その結果、以下のように傘が雨を弾く音のイメージにたどりつきました。
  稲垣4

広島県の山間部地域のように、日本には限界集落と呼ばれる地域が多く存在します。残念なことではありますが、伝承者がいなくなり、途絶えてしまう芸能は沢山あります。

私が今回紹介したように、新作邦楽の詞章にこのような民俗芸能の歌詞を摂取する、という手法は、今後、途絶えてしまいそうな民俗芸能に再び人々の注目を集め、芸能保存の方法の一つになるのではないかと考えています。新作邦楽には新しい風を、民俗芸能にはその保存を、と双方に良い効果がもたらされるのではないでしょうか。

 「古きを訪ねて新しきを知る。」新しいヒントやアイディアは古典の中に溢れています。皆さんも生まれ育った地域の民俗芸能や興味のある伝統芸能の歌詞を改めて読み直してみてはいかがでしょうか。

 

稲垣慶子

 

国立音楽大学アドバンストコース、日本大学博士前期課程舞台芸術専攻修了。日本の横笛の歴史研究、古典音楽の詞章研究を中心に活動中。

 

2018年02月25日

映画解説(工芸部門) vol.2

「流れの美」を描いた染色家

−映画『芹沢銈介の美の世界』−

   大友 真希(染織文化研究家)
339、芹沢銈介、額「風」

《風の字》 紬地型絵染 1957年

公益財団法人ポーラ伝統文化振興財団

 《風の字》は、芹沢銈介(1895-1984)の代表作の一つである。「風」を筆の勢いで書いたままに見えながら、丸みを帯びるそのかたちが、月夜の空を吹きぬける「風」そのものをあらわしているようにも見えないだろうか。実体がなく目に見えない風の流れは、芹沢の目、耳、鼻、皮膚に伝わり一度内面化されたのちに、「型絵染」によってあたらしい命が吹き込まれている。《風の字》が生み出された経過を、そんな風に考えてから再び《風の字》と向き合うと、今度はあたかもポーズを決めた「風」がスポットライトをあびる姿に見えてきて愛くるしささえ感じた。この《風の字》は「のれん」の模様としても親しまれている。
屏風007 布文字春夏秋冬二曲屏風(縮小)
《布文字春夏秋冬二曲屏風》 1965年

静岡市立芹沢銈介美術館

 芹沢は、あらゆるものを題材にして模様を描いた。植物、動物、風物、諸像、暮らし、仕事、道具、物語、文字、具象、抽象…森羅万象がモチーフだったと言っても過言ではない。
 

 そのなかに、「春夏秋冬」という文字をデザインし四季の変化をあらわした《布文字春夏秋冬二曲屏風》がある。「春夏秋冬」の文字と季節ごとの動植物模様が周りを囲む。《風の字》と同じ文字絵であるが、その文字は流動する帯状の布によってあらわされている。芹沢はこれを「布文字」と呼び、多くの作品を生み出した。

のれん024 天の字のれん《天の字のれん》 1965年
静岡市立芹沢銈介美術館

 《天の字のれん》もその一つだが、これについては「天」という文字よりも、動いている布そのものが主題であるかのようだ。さらに布が布に型染されているという多層的な趣向が、不思議な感覚をあたえている。芹沢にとって文字を書く筆の流れは、天に舞う布の流れも内包していた。


 本映画では、88歳を迎える芹沢がなお旺盛に創作する姿が映し出され、その生涯を振り返りつつ、作品に見る「美の世界」が描かれている。芹沢は自らの溢れる創作性を、ただ「描く」だけでなく、型紙彫り、糊置き、色差しといった「行為の重なり」によって最大限に成就させた。下絵どおりの、または頭にイメージした完成形に向かう制作を好まず、「行為の過程を愉しんだ集積」によって作品を生み出していたのだ。伝統染色である型染は、古くから職人の分業によって制作されてきたものだが、芹沢はすべての工程を自らの手でおこなった。その一貫した仕事は、独自の芸術性を創出し、あらたに「型絵染」と呼ばれるに至った。

芹沢銈介L芹沢銈介 1983年
公益財団法人ポーラ伝統文化振興財団
 映画のなかでは、芹沢がこれまでの仕事を顧みて、「なんで今までやってきたのか分からない。自分でこうやろうと思っていたのではなく、いつの間にかこうなった」と冗談めかして話したというのが印象的だった。また、「家出をして、ほうぼうを旅してまわりたい」と「流浪」への憧れをよく口にしていたのを知り、芹沢の眼差しとその先にあったものの正体を掴むことができた気がしている。芹沢は、「流れの美」をこの世界に見いだしていたにちがいない。



 

0012_001※記録映画「芹沢銈介の美の世界」(1984年製作/35分)
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※次回は3月25日、記録映画「-筬打ちに生きる-小川善三郎・献上博多織」
をご紹介します。

 

2018年02月15日

 【地域社会における信仰民俗文化と風土 ―青森県津軽地方の川倉賽の河原祭祀を事例として―】

DSC_0524 死者(亡児)供養をする信仰祭祀に賽の河原霊場の例大祭があります。全国的な分布を示す賽の河原は、名称を示すだけや荒廃著しい実態が見受けられる反面、特徴的な信仰祭祀が現在も盛行している地域が確認できます。その存続の主体は地域住民であると言っても差し支えないでしょう。紙幅の関係で全貌を述べられませんが、現在も存続される事象について、霊場存立の多い青森県津軽の祭祀事例からお話をさせていただきます。
   

川倉賽の河原地蔵尊本堂

 
DSCN2247 青森県には霊場が点在します。国内的には下北の恐山が有名ですが、地域主体で継承する多くの霊場は津軽地方といえます。その中で、現在も特徴的な死者(亡児)供養が盛行するのは「通称:ストーブ列車」の津軽鉄道で有名な、青森県五所川原市金木町川倉に建立された地蔵堂を中心にした川倉賽の河原地蔵尊です。本堂に向かう坂道の両側には数多くの地蔵像が祀られてお菓子や果物の供物が置かれ、無数の赤い風車が亡者(子ども)を供養する情景として独特の様相を醸し出します。
参道の風車が寂しさと我が子を思う気持ちに溢れている。  
DSCN2243 写真は2011、2014年の例大祭の様子です。大祭へは供養の申し込みをして、近隣の寺から参勤した僧侶に「諷誦文(ふじゅもん)」の読誦依頼をすることで参加が可能となります。読経供養の後、本堂内陣裏の階段(ひな壇)方式に安置する供養者各自の地蔵像にお参りを済ませ、真新しい着物や帽子(頭巾)を着せ替えます。着物や帽子は、供養者の手製によるもので、同一のものは見かけないほど、様々な色柄・服地で縫製されています。この理由は子どもの頃に着ていたものを利用するということと、着物により、自分の地蔵を容易に判別するためです。このような、亡児供養は他に類をみない特徴といえます。

例大祭の参詣と地蔵像安置の様子

 
DSC_0460 もう一つの特徴は地蔵像です。像は亡くなった子どもの写真等で似せて、石工に彫らせるものがほとんどで、堂内と堂外(堂の周囲・参道)に安置されています。像の総数は二千体以上で堂内でも千六百体が安置されています。基本的には亡くなった子ども1人/1体でありますが、中には子ども数人/1体という像も見かけます。さらに亡児の実在化(擬人化)を求めて顔に彩色をします。これは、化粧地蔵と呼び国内各地に点在する習俗です。亡児供養の際立った特徴の最後に、供養で亡児との対話に介在するイタコの口寄せが重要な行事だということも挙げられます。

イタコによる口寄せの様子

 
DSC_0440

特徴をまとめると、この地は飢饉が頻発した地域で大勢の子供が亡くなった背景から、

  1. 「亡児1人/1体の地蔵像を写真に似せて造立」
  2. 「亡児の実在化(擬人化)を求めて顔に化粧を施す」

ということが特筆できます。また、「イタコの口寄せ」は、賽の川原で「死者(亡児)との再会と対話」という供養が重要不可欠です。以上の事象は、他の霊場には類をみない稀有な事例であり、地域の信仰民俗文化・風土だと考えることができます。

現代とは異なり、幼子が成人を迎えるのが難しかった時代・・・。愛する子が無くなった後も、その子のことを想い続ける・・・。人々の悲しくも温かい心が生んだ、日本の文化なのかもしれません。

亡児に擬人化した地蔵像と独自の着物・化粧

 

 

 

近石 哲(チカイシ サトシ)

2017年、神奈川大学大学院歴史民俗資料学研究科博士後期課程修了。博士(歴史民俗資料学)。現在、神奈川大学日本常民文化研究所特別研究員として日本各地の仏教民俗研究を行っている。

 

2018年02月10日

映画解説 vol.5

民俗芸能のオニが教えてくれること

映画『鬼来迎―鬼と仏が生きる里―』

  川﨑 瑞穂(国立音楽大学助手)

鬼来迎(赤鬼)

多くの祭礼や民俗芸能で彩られる夏の房総半島。千葉県山武郡横芝光町の「虫生(むしょう)」という小さな集落では、先祖の帰るお盆の8月16日、広済寺(こうさいじ)の施餓鬼供養の一環として「鬼来迎(きらいごう)」という芸能が行われる。今回紹介する映画『鬼来迎―鬼と仏が生きる里―』(2013年)は、地獄を表現したこの仮面劇を、伝承者たちの想いとともに描き出した作品である。

夏の日差しに照らされた虫生の美しい田園風景から、映画の舞台は雅楽の響きとともに奈良に移り、當麻寺(たいまでら)の「聖衆来迎練供養会式(しょうじゅらいごうねりくようえしき)」が映し出される。仏を主人公として極楽浄土を可視化したこの法会と、鬼を主人公として地獄を可視化した「鬼来迎」のコントラストが巧みに表現されている。中世ヨーロッパで「メメント・モリ」(死を想え)という言葉が流行し、突如として与えられる死が、生者と死者の交歓、すなわち「死の舞踏」として可視化されたように、死後の世界は各国で様々に表現されてきた。鬼来迎において、死者は閻魔大王による審判を経て、釜茹でをはじめとした鬼の責め苦を受けるが、そこに菩薩が救いの手をさしのべる。最後には仏が助けてくれる、ということが、人々にとっていかに重要であったのかが分かる。しかし、ナレーションでも語られているように、この芸能は地元で「鬼舞」と呼ばれており、あくまで「鬼」が来迎するものである。なぜ、かくも人々を責めさいなむモノをわざわざ招き入れるのだろうか。

そもそも「鬼」とは何者か。今でこそ虎柄のパンツを履き、金棒を持った悪者として追い祓われるだけの存在であるが、日本各地の民俗芸能を見回すと、鬼が主人公になっているものが多く、鬼来迎のように、様々な面や装束で表現されている。「鬼(オニ)」という名前は、一説には「隠(おん)」から来ているとされており、存在の手前、あるいは存在の彼方に踏みとどまっているのが鬼であるともいえる。見えるようで見えないという鬼の特徴は、その「字」にも端的に表れている。鬼来迎の「鬼」という字には、正式には「ツノ」がない。名前自体にも差異がある鬼というモノは、いわば「書かれる」ことをも拒否するモノであり、定義されることを拒絶するモノなのである。

鬼来迎では、このように定義ができないモノを、毎年わざわざ自分たちの中に招き入れる。鬼のなすがままになる死者(=演者)は、理解不可能な他者である鬼を、理解不可能なまま受け入れている。そこに鬼来迎が宿している「絶対的な歓待」の思想を読みとることもできよう。本作には、虫生に移り住んだ男性が、鬼来迎で鬼婆を演じるべく、先輩に教えを乞うシーンがある。先輩にとって新来の住民が他者であるのと同じく、新来の住民にとって、演じるその鬼はまさに他者である。老婆のようにみせるのが難しいと語る新来の住民に、先輩はそのコツを優しく、かつ情熱的に伝授する。鬼来迎と虫生の人々が教えてくれる「他者を歓待する思想」は、これからの時代、様々な「外」の人々に向き合うときに課せられてくる態度でもある。本作を通して、毎年2月3日に退治する鬼に、少し思いを馳せてみてはいかがだろうか。


註:本稿は2018年1月27日に行なった同名の講演(於 くにたち市民芸術小ホール)の発表原稿に基づいている。

赤鬼

鬼来迎(大序)

「大序」

鬼来迎の鬼字

映画『鬼来迎―鬼と仏が生きる里―』パンフレットより、鬼来迎の「鬼」の字

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釜茹でをする黒鬼(左)と鬼婆(右)
※今回掲載した写真は、ポーラ伝統文化振興財団による撮影


 チラシ表画像(下部の黒帯部分はトリミング可です)記録映画「鬼来迎 鬼と仏が生きる里」(2013年制作/38分)
映画紹介はこちら
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※鬼来迎保存会は、第30回伝統文化ポーラ賞地域賞の受賞者です。
詳細はこちら

※次回は3月10日、「-琵琶湖・長浜-曳山まつり」をご紹介します。

2018年02月01日

【映画解説(工芸部門)講師のご紹介】

プロフィール写真弊財団では、専門家にご寄稿いただき、記録映画の見ど
ころを解説していただいております。

今月からは、民俗芸能の映画紹介(毎月10日)に加え、
伝統工芸の映画解説(毎月25日)もスタートいたしました。

今回は、染織関係の映画解説(全6作)をしていただく、
染織文化研究家の大友真希先生にお話をうかがいました。


(以下、大友先生:先生、財団職員:財団)

...

[伝統染織の魅力について]

財団:伝統染織の魅力は、なんでしょうか?

先生:日本には、実に多種多様な伝統染織があります。それらが完成品において各々の魅力
    をもつことは言うまでもないのですが、それらを生み出すつくり手たちの手仕事への姿勢
    や信念にも心がひかれます。

財団:つくり手たちの手仕事への姿勢や信念ですか・・・なんだか深いですね。

先生:現代において、機械化した効率的な生産ではなく、手間と時間のかかる伝統染織を選び
    継続していくには、つくり手の強い意思や働きが確実にあります。
    そうした「染め・織り」への「思い」のようなものが完成品の深みを増しているのではと思います。

財団:たしかにそうですね。地道な手仕事で作られた着物などは、着たら思わず背筋が伸びま
    すし、大切にしなくてはと思います。

先生:伝統染織というと着物のイメージがあると思いますが、なかにはバッグ、財布、帽子など
    日常的に使えるプロダクトも数多くあります。工芸品は「使う」ことでその良さがわかります
    ので、小物からでも、生活のなかで使ってみるといいと思います。


[ポーラ伝統文化振興財団の記録映画の見所]

財団:ポーラ伝統文化振興財団の記録映画の見所は、どんなところですか?

先生:どの映画も、伝統染織を受け継ぐ方々の「染め・織り」への真摯な姿勢や強い信念が垣間
    みられる場面が見所だと思います。

財団:ありがとうございます。実は弊財団の映画は、ただ製作工程を記録するだけでなく、つくり手
    の人柄や、創作に対する信念、伝統に向き合う心などが伝わるような映像づくりに力を入れ
    ています。

先生:そうでしたか。もちろん、製作工程をわかりやすく解説しながら、つくり手が素材と向き合う姿
    や熟練した手技を丁寧に記録されているのも素晴らしいです。なかには、もうお亡くなりにな
    られて、お目にかかることが叶わない、つくり手の姿や技が映像で残されているものもある
    ので、染織資料としてもとても貴重です。


[ご自身の研究について]

財団:ご自身の研究について教えていただけますか?

先生:日本とメキシコの染織文化を研究しています。

財団:えっ、日本とメキシコの染織文化ですか?興味津々です!もっと具体的に教えて下さい。

先生:日本では、草木の皮などの繊維を糸にして織った布、「原始布(げんしふ)」といわれる織物
    を対象に、その生産方法や技術伝承を調査しています。メキシコでは、オトミ族の村でつく
    られてきた、竜舌蘭の一種「マゲイ」の織物について調査をしています。

財団:原始布ですか!過去の伝統文化ポーラ賞受賞者の中に、山村精さんという原始布の復元
    に尽力された方がいらっしゃいます。木綿や麻の織物が登場する前の古代の人々から伝わ
    ってきた貴重な技術ですよね。まさかメキシコにも似たような織物があるとは驚きです。

先生:そうですね。大変興味深く研究しています。

財団:先生は今の研究をなさる前に、作り手として染織の制作技術も学ばれていたんですよね?

先生:はい。大学時代は美大でテキスタイルデザインを学んでいました。
    1~2年生で染織の基礎技術を習得した後、卒業制作ではジャガード織機を使って織物作品
    をつくりました。

財団:そうでしたか。大学時代に制作技法を学ばれた経験は、きっと今の染織研究につながってい
    らっしゃるんでしょうね。

先生:とても役立っていると思います。染織では、とりわけ「織布」の工程が注目されがちですが、
    織り仕事に至るまでにはいくつもの工程があって、ここにも多くの時間と労力が費やされます。
    糸づくりからする場合は一層大変です。

財団:なるほど。

先生:染織について調査・研究をする際、その大変さを体で理解していることは大事だと思います。
    そのため、メキシコでも日本でも、調査させていただく方々の仕事に参加させていただくこと
    が多いです。


[今後について]

財団:先生の今後について教えて下さい。

先生:今後も日本全国の染織工芸産地を訪れ、さまざまな「染織の姿」を見ていきたいと思います。
    また、いつになるか分かりませんが、日本とメキシコの染織文化を両国に紹介できるような
    活動ができればと考えています。

財団:先生、貴重なお話をどうもありがとうございました。



■大友真希先生
染織文化研究家。多摩美術大学にてテキスタイルデザインを学ぶ。2008年よりメキシコに滞在し
インディヘナの染織文化を調査。帰国後、日本国内の染織工芸産地を訪れフィールドワークを行
い、技術伝承における「風合い」の経験・感覚的認識について探求をしている。現在、東京・神奈
川の自治体で学芸職に従事しながら日本・メキシコを中心とした染織文化の調査・研究を行って
いる。

<経歴>
1980年 東京生まれ
2004年 多摩美術大学美術学部生産デザイン学科テキスタイルデザイン専攻 卒業
2009年 メキシコ国立人類学歴史学学院(ENAH)留学(~2011年)
2014年 神奈川大学大学院歴史民俗資料学研究科修士課程 修了

<執筆歴>
『布のゆくえ–久高島の衣裳にみる−』多摩美術大学テキスタイル研究室助手副手展、2006年
「それ自体が巨大な織物であったメキシコ」『Águila y Sol』No.28、日墨交流会、2011年
「民具短信」『民具マンスリー』4月号、神奈川大学日本常民文化研究所、2017年

2018年01月25日

これまで毎月10日に民俗芸能の映画解説をお届けしてまいりましたが、今月から
毎月25日に伝統工芸の映画解説もスタートいたします。

工芸部門の映画解説は、毎月25日の公開で、まずは染織関係の映画6作品につ
いて、染織文化研究家の大友真希先生に解説していただきます。ぜひご覧下さい。


映画解説(工芸部門) vol.1

わざと心を受け継ぐ織物

−映画『芭蕉布を織る女たち−連帯の手わざ−』−

  大友 真希(染織文化研究家)

芭蕉布1

張りがあって風通しの良い風合いをもつ芭蕉布は、琉球の風土にあう着物の素材としてかつて広く用いられた織物である。沖縄県大宜味村喜如嘉(おおぎみそんきじょか)では、自家用に織っていた芭蕉布を明治後期から地場産業に発展させ、昭和前期までその発展が続いた。戦後、衣料の急変などで生産が衰微していたが、平良敏子(たいらとしこ・大正10年生)さんを中心とした集落の女性たちによって喜如嘉の芭蕉布は再興した。昭和30年頃を境に古くからの慣習・生活も大きく変わっていくなか、長年地域に伝わる芭蕉布の発展と継承にすべての力を尽くしてきたのが平良さんである。平良さんを指導者に、芭蕉布づくりに励む女性たちのその技術と生み出される芭蕉布は、昭和47年に沖縄本土復帰の後、県の無形文化財に指定された。また、国の重要無形文化財に指定(昭和49年)、第1回伝統文化ポーラ大賞受賞(昭和56年)など、日本の伝統染織として高く評価されていったのである。

本映画では、原木栽培から織物の完成に至るまでの全行程を追いながら、喜如嘉の女性たちが連帯と共同の力で守り続けてきた芭蕉布づくりの様子が克明に記録・紹介されている。芭蕉布ができあがるまでには何十もの工程があり、その一連の作業は単純かつ複雑でありながら、すべてが手仕事でおこなわれている。どの仕事も技術と根気を要するのだが、こうした芭蕉布づくりは喜如嘉に暮らす女性たちの「連帯の手わざ」によって支えられてきた。

芭蕉布の原木・糸芭蕉の伐採にはじまり、皮から繊維を取り出し、繊維を績(う)んで糸にする。糸づくりはもっとも大変で時間のかかる仕事である。単調な手仕事の繰り返しなのだが、布を織るための糸となるには大量かつしっかりと績まれたものでなければならず、それには熟練した技が欠かせない。そのため、糸づくりは年配女性たちが頼りとなるのだ。それは絣糸(かすりいと)をつくる仕事も同じであり、糸を括る彼女たちの指の動きは確実で巧みである。平良さんは、こうした芭蕉布づくりの先輩方に対し、敬意と感謝の気持ちをもちながら日々仕事に努めていることが全編を通して伝わってくる。個人としての作家性を持たず、地域性を重んじた共同体による手仕事を貫くことで、芭蕉布の美しさが保たれてきたのだと思わずにはいられない。

12月から翌2月にかけて、喜如嘉の女性たちは苧倒し(うーだおし・糸芭蕉の伐採)から苧引き(うーびき・糸芭蕉から繊維を採取)の仕事に追われる。芭蕉布に適した良質な繊維を取れるのがこの季節だからだ。以前、喜如嘉の工房を訪れたとき、若い研修生たちが黙々と仕事をする傍ら、ただ静かに芭蕉糸を績む平良さんの姿があった。本映画の撮影から四十年近く経過したいまも、平良さんが芭蕉布の先人たちから引き継いだ「わざと心」はしっかりと生きている。


糸芭蕉の茎から皮を剥ぐ(苧剥ぎ)

芭蕉布2

繊維を績んで糸をつくる(苧績み)

芭蕉布3

織りあがった芭蕉布を干す平良敏子さん

芭蕉布4

若い世代へとわざが受け継がれていく

※今回掲載した写真は、ポーラ伝統文化振興財団による撮影

 
Basyouhu※記録映画「芭蕉布を織る女たち-連帯の手わざ-」(1981年製作/30分)
映画紹介はこちら
無料貸出はこちら

※次回は2月25日、記録映画「芹沢銈介の美の世界」をご紹介します。

2018年01月15日

【エイサーの伝統と展開】

 エイサーとは、沖縄本島およびその周辺離島で旧盆の時期に先祖供養のために地域の若者たちによって踊られる芸能である。その起源は諸説あるが、一般的に日本本土から来沖したチョンダラー(京太郎)という流浪芸能集団に起源を求めることが多い。彼らはいわゆる門付芸人であり、念仏歌を唱えながら沖縄各地の家々を歩きまわっていたが、やがて、沖縄の青年たちがこの念仏歌を習い覚え、家々を巡るようになった。その担い手は青年会と呼ばれる市町村ごとに結成されている自主的な組織に属し、旧盆の時期になると、夕方から夜中かけて各家を踊りまわる(写真1)
 地元の人はどこからか聞こえてくる太鼓の音を頼りに、エイサーを見に来る。青年会の回るルートは公に発表されていないので、このように太鼓の音を頼りに地元の人が徐々に集まってくる(青年会に問い合わせてルートを把握することはできる)。

エイサー









写真1 普天間三区青年会   撮影:執筆者


 エイサーは各青年会によってキャラクターが異なるため、隊列や振り付け、衣装、人数、曲目などを比較しながら見てみると面白い。例えば、各青年会のエイサーの伴奏曲で《仲順流れ》や《唐船ドーイ》などは必ず含まれるのだが、同じ曲でも、テンポやその楽器構成、曲中の振り付けや隊列に違いがあるので、その曲の雰囲気や印象は青年会によって変わってくる。この多様化の背景には、1956年に開催された「全島エイサーコンクール」の影響が大きく、当時、各青年会は審査員や観客からの注目を引くために、豪快に太鼓を回したり、踊り手がジャンプをしたりと、青年会独自のエイサーを追求しており、現在でもそうした工夫は盛んに続けられている。1977年からは「全島エイサーまつり」に改名され、コンクール形式は廃止されたが、エイサーまつりは夏を代表する一大イベントになっている(写真2)

 
エイサー②









写真2 全島エイサーまつり(初日) 撮影:執筆者


 このようにエイサーは青年会を中心に継承・発展されていくが、それとは別に、1980年代以降、沖縄では地域共同体に依存しないクラブ型エイサーと呼べる新しいエイサーが登場した。1982年に結成された「琉球國祭り太鼓」は、沖縄だけでなく、本土や海外でも積極的に活動し、現在でもクラブ型エイサーとして根強い人気を持っている。青年会は住んでいる地域の人々によって組織された団体であったが、クラブ型エイサーは地域に限らず誰でも参加することができる。また、旧盆以外でも年間を通じての活動、女性でも太鼓を叩くことができる(伝統的に女性が太鼓を叩くことはなかった)など、様々な点で従来の青年会の伝統エイサーと異なる。特に、伴奏曲は今まで念仏歌、民謡、新民謡で構成されていたのに対し、クラブ型エイサーは沖縄ポップを導入するという斬新な展開を見せている。
 このように、エイサーには伝統に重きを置いた青年会とその型にとらわれないクラブ型エイサーがある。みなさんも沖縄に訪れた際には、両者のユニークなエイサーをご覧になってはいかかがだろうか。



澤田聖也 プロフィール

沖縄県那覇市生まれ。国立音楽大学 音楽文化デザイン学科音楽学卒業。東京藝術大学大学院 音楽研究科音楽文化学修士課程に在学。2015年、グローバル・カルチャー那須プロジェクトに三味線で参加。「沖縄音楽とアイデンティティの関係性」、「在沖米軍基地周辺のミュージシャンの演奏活動」をテーマに研究を行っている。

2018年01月10日

映画解説 vol.4

「まつり」と「きまり」

映画『神と生きる―日本の祭りを支える頭屋制度―』

  川﨑 瑞穂(国立音楽大学助手)

第一段落:「諸田舟神事」で2隻の諸田船の舵子が水をかけあう場面(PC131707左中央)

われわれの日常生活に様々な「きまり」があるのと同じく、各地に存在する祭礼にも多種多様な「きまり」がある。人間と自然との関係が「文化」であり、人間同士の関係が「社会」であるとするならば、その双方に跨るのが祭礼の「きまり」であるといえる。祭礼の代表者「頭屋(とうや)」にまつわる「きまり」はその好例であるが、今回紹介する映画『神と生きる―日本の祭りを支える頭屋制度―』は、複雑な頭屋制度の仕組みを、二つの祭礼を通して、図を使用しながら分かりやすく解説した作品である。

一つ目の祭礼は、島根半島の東端、松江市美保関町の美保神社に伝承されている「諸手船神事(もろたぶねしんじ)」と「青柴垣神事(あおふしがきしんじ)」である。毎年12月3日と4月7日に行われるこれらの神事は、「国譲り神話」、すなわち地上の神であるオオクニヌシ(ダイコク)が、当地「出雲の国」を天から降ってきた神々に譲る神話に基づいている。氏子の中から選ばれた「一ノ当屋」「二ノ当屋」の2人は、青柴垣神事においてミホツヒメ(オオクニヌシの后)とコトシロヌシ(エビス)となり、干し柿以外口にしてはいけない、目を開けてはいけない等、様々な「きまり」が課せられる。本作では、神となった2人が行列を伴って海に向かい、囃子が奏されている舟に乗り、海上での擬死再生の儀礼を経て神社の拝殿に迎えられるまでを詳細にまとめている。

次に舞台は兵庫県加東市上鴨川の住吉神社に移る。毎年10月4日と5日に当地で行われる「神事舞」は、氏子によって組織される宮座(みやざ)の一人が神主を務める芸能であり、こちらにも様々な「きまり」がある。最初の太刀舞(リョンサン舞)は、宮座の「若衆(わかいしゅう)」の序列で、上から三段目のものが舞うという「きまり」がある。また、本作には御神楽(おかぐら)で使用する楽器の一つである小鼓を転がして渡すシーンがあるが、これは手渡ししてはいけないためである。神事舞ではこの他にも、獅子舞、田楽、扇の舞(イリ舞)、高足、能舞(翁舞)といった様々な芸能が披露されるが、本作にはこれらの練習(はつならし)の風景も収録されており、芸能の「きまり」がどのように伝承されているのかがよく分かる。

室町時代より続くとされるこれら二つの祭礼を通して、われわれは頭屋制度だけではなく、祭礼自体に張り巡らされている多彩な「きまり」に遭遇する。本作に多数盛り込まれている個人へのインタビューは、この一見無意味なようにも思える「きまり」がなぜ伝承されてきたのか、その答えを探る糸口となる。祭礼の「きまり」は、しばしば日常の「きまり」を逆転、あるいは侵犯したものであるが、仕事と神主との両立の難しさを語る神事舞の青年の顔は、むしろ自信に満ちている。仕事、すなわち「何か」のために自らを捧げる社会的な「きまり」の中で、年に一度、あるいは一生に一度、何のためでもない別の「きまり」に自らを捧げるその刹那、人は生きていることを実感するのではあるまいか。様々な「きまり」の中で神と生き、さらには神となる個人を追った本作は、われわれに「生きるとは何か」ということを考える機会を与えてくれる作品でもある。

諸手船神事

第二段落:「青柴垣神事」で頭屋が2人並んで座っている場面(PC131731左2枚画質良い方)

青柴垣神事の一ノ当屋と二ノ当屋(中央の2人)

第三段落:太刀の舞(PC131696のタテの写真)

神事舞「太刀舞(リョンサン舞)」

第四段落:神事舞の神主へのインタビューの場面(PC131682左中央か左下)

「受渡し」(神主と禰宜が交代する儀礼)
※今回掲載した写真は、ポーラ伝統文化振興財団による撮影

 
4110_001※記録映画「神と生きる-日本の祭りを支える頭屋制度-」(2004年制作/30分)
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※次回は2月10日、「鬼来迎 鬼と仏が生きる里」をご紹介します。

2017年12月22日

               年末年始休業のお知らせ

 弊財団は12月25日(月)、12月30日(土)~1月4日(木)は年末年始休業となりますので、

各種お問い合わせについてのご対応が1月5日(金)以降になります。
 
お客様にはご迷惑をおかけして申し訳ございませんが、ご了承くださいますようお願い申し上げます。

 新しい年も変わらぬご支援のほど、よろしくお願い申し上げます。 

2017年12月20日

【ブラジル国レジストロの灯籠流し】

 1908年から日本人のブラジル移住がはじまり、来年はブラジル日本移民110周年となります。評論家の大宅壮一が「明治の日本が見たければブラジルにいけ!」との名セリフを残したという話もあるほど、ブラジル日本移民社会には初期の移民たちが持ち込んだ明治気質が色濃く残り、現在でも遠く離れたブラジルで日本伝統文化を継承しようと試みている人々がいます。

 サンパウロ市から約180キロ南西にあるリベイラ川のほとりに位置するレジストロ市では、毎年11月に灯籠流しを行い、先没者への慰霊法要などを通じて日本の文化をブラジル社会へ広めています。

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灯籠流しは、一般的にはお盆に行われる送り火の一種であり、死者の魂を弔って灯籠を海や川に流す日本の伝統行事の一つです。では、なぜブラジルでは11月に行うのでしょうか?実は11月2日カトリック教国のブラジルは『死者の日』を迎えます。ポルトガル語で「Dia de Finados」。この日は全国の学校、職場などが休みとなり、多くの人が墓地を訪れ死者の魂のために祈りを捧げます。この死者の日をブラジルに移民した日本人やその子孫である日系人たちは「お盆」と称し、カトリック教徒でなくてもお墓参りをして先祖や先没者を慰霊するのです。
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この灯籠流しは、今年で63回目を迎えます。1955年、リベイラ河で亡くなった水難事故者に対して日蓮宗の僧侶が「南無妙法蓮華経」の7字を当てた7基の灯篭を流したことから始まりました。現在ではレジストロ日伯文化協会が引き継ぎ、日蓮宗や市役所などと協力して開催されています。

 灯籠流しの催しは二日間にわたって開催され、初日はレジストロ日伯文化協会の和太鼓や民謡大和会のダンスなどが披露されます。2日の午後6時から慰霊法要、そして7時から灯籠流しと続きます。その慰霊法要の前には、日蓮宗徒らが船で川を下りながら太鼓を鳴らし読経をします。リベイラ川を清める儀式です。その後、河岸に建立されている水難犠牲者追悼碑の前で先没者慰霊法要が行われます。法要には、日蓮宗徒だけでなく、ブラジルらしくキリスト教などの宗教団体も宗派の枠を超えて参列し、参列者が順番に祭壇へ線香を捧げます。

 会場周辺にはヤキソバに天ぷら、寿司などの屋台や日用品などを販売する露店も出ます。会場中央には盆踊り用の舞台も設置され、日系人や日本文化に興味があるブラジル人たちがこぞって盆踊りに参加します。フィナーレには花火が盛大に打ち上げられます。

このように灯籠流しや慰霊法要を通じて、日本文化や「先没者の方々のおかげ」や「御先祖様」といった日本の「こころ」を継承してゆこうと試みているのです。

 

 

加藤里織 プロフィール

 JICA横浜海外移住資料館での展示ガイドや帆船日本丸記念財団で学芸補助をしながら、2014年3月神奈川大学大学院博士前期課程修了。同年4月より神奈川大学大学院博士後期課程に在学。2015年2月から2016年2月までサンパウロ大学 哲学・文学・人間科学部大学院(ブラジル)に留学し、帰国後もブラジルと奄美を行き来しながら「ブラジル奄美移民」をテーマに研究を行なっている。

 

2017年12月10日

映画解説 vol.3

緩急織りなす芸能の時間

映画『新野の雪祭り―神々と里人たちの宴―』

  川﨑 瑞穂(国立音楽大学助手)

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大正時代の終わり、信州伊那谷の新野(にいの)から芸能の歴史を辿る壮大な旅をはじめた民俗学徒がいた。雪を豊作の予兆とみるこの芸能を「雪祭り」と命名したのが、その人、折口信夫である。折口の台本による映画『雪まつり』(岩波映画製作所、1953年)を嚆矢として、この芸能は何度か映像化されており、今年2017年には南信州広域連合の民俗芸能保存継承プロジェクトの一環として、記録映像『新野の雪祭り』が制作された。今回紹介する作品は、1991年に伝統文化ポーラ大賞を受賞し、1995年に文化功労者となった民俗芸能研究の泰斗、本田安次が監修した映画『新野の雪祭り―神々と里人たちの宴―』(1981年)である。

雪祭りといえば1月14日から15日朝にかけて行われる伊豆神社(長野県下伊那郡阿南町新野)での神事が中心であり、これを見学することが多いが、本作では前日13日の諸行事も詳細に紹介している。中でもお旅所の諏訪神社で行われる「面化粧」は一見の価値がある。仮面の色を塗り直すこの行事は、御神体である仮面に新たな魂を塗り込む儀礼であるという。雪祭りの魅力の一つがその多彩な仮面であることは、雪祭りを知っている人ならば誰でも首肯することだろう。中でも「サイホウ(幸法)」は最も重要な仮面であり、本作でもクローズアップされているが、そのエキゾチックな仮面と舞には私も感動した記憶がある。

ナレーションでも述べられているように、14日の夜中に顕れるサイホウは計9回も出入りする。本作はダイジェストであるためテンポよく先に進むが、実際の雪祭りの各部分には繰り返しがとても多い。これに対し、「お獅子」のように一度きりしか登場しない役もある。何度も繰り返すこと、逆に1回しか行わないこと、その緩急が芸能独自の「時間」を形作っているともいえる。芸能の時間に身を浸すことは、日常の計測可能な、外的な時間を一旦括弧に入れ、計測不可能な、内的な時の流れに身を浸すことである。このような「芸能の時間」というものは、窮極的には演じられるその場でのみ体験できるものである。

とはいえ、1月の寒空のもとで夜通し観るにはかなりの体力と根気が必要であり、ほとんどの人が休憩所で仮眠をとりつつ観ることとなる。私が雪祭りの調査を行なったのは、学生時代、研究をはじめたばかりの頃であった。夜通し行われるこの祭礼を、せっかく来たのだからと休まずに観ていたら、明け方の帰り際、地元放送局のカメラマンに「ずっと外にいたね」と驚かれたのを覚えているが、今同じように観る自信はない。本作は雪祭りをコンパクトにまとめているが、それでも雪祭りのインパクトは健在である。サイホウのような目立つ部分だけでなく、前述した「面化粧」をはじめ、舞い役を決める御籤(みくじ)や、「お滝入り」という禊(みそぎ)など、一般の目には触れにくい部分にも注目しており、その緩急は映像だからこそ表現できるものであるとも言えよう。本作を通して、時計で計られた日常の時間の中で、ひととき芸能の時間に身を委ねてみてはいかがだろうか。

サイホウ(幸法)

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雪を撒くモドキ(写真奥)

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お獅子
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明け方の新野(伊豆神社より)
※今回掲載した写真は、川﨑瑞穂先生による撮影

 
4045_001※記録映画「新野の雪祭り―神々と里人たちの宴―」(1981年制作/30分)
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※次回は1月10日、「神と生きる-日本の祭りを支える頭屋制度」をご紹介します。

2017年12月01日

【伝統と改革の狭間で‐津軽三味線奏者‐】

津軽三味線奏者の武田佳泉です。最近、テレビのBGMなどでも和楽器の音をよく耳にするようになってきました。東京オリンピックも近づいてきて、和楽器に注目が集まっています。今回は、私が演奏している津軽三味線についてご紹介したいと思います。

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津軽三味線はもともと、盲目の坊様と呼ばれる人たちの門付け芸から始まり、長い間卑しめられてきた歴史があります。
三味線の中で太棹と呼ばれる種類が使われ、激しく力強い演奏が特徴的です。もともと門付けで持ち運びが多かったため、細棹の軽いものを使った方が便利だったはずなのですが、津軽三味線の祖と言われる仁太坊という人が負けず嫌いで、義太夫三味線の太棹に影響を受け今の形になったと言われています。
また、津軽三味線は津軽民謡の伴奏というのが定番ですが、今残されている津軽民謡は最初の形から大きく変化しています。時代が流れ晴眼者の農民も民謡を唄うようになり、節回しや文句を競い合うようにしてどんどん難しくなっていったそうです。それに合わせて伴奏の三味線も技巧的になり、前弾きと呼ばれる前奏部分が発展して独奏楽器としても活躍するようになりました。
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今でも、演奏会では曲中で拍手をしても良いということになっているのですが、昔はお客さんが奏者を気に入らなければ見向きもせず、気に入る奏者には声援や拍手で盛り上げるといったことが如実に現れていたそうです。奏者としてはプレッシャーですが、舞台がそういった挑戦の場であるからこそ、かつての仁太坊の精神が今でも受け継がれているのかもしれません。
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近年では、あらゆる音楽ジャンルとコラボレーションされており、電子楽器の音量にも対応できるようエレキ三味線も開発されました。ロックバンドやジャズバンド、また民族楽器とユニットを組む奏者も現れ、色々な形で演奏されて世界でも人気の高い楽器になってきています。 私は津軽三味線ユニット 輝&輝として活動をしています。
オリジナル曲の中に民謡を取り入れたり、民謡や日本の楽曲をバンドアレンジ、コンサートの中で津軽じょんがら節の太鼓のリズムをお客様に体験していただいたりしながら、民謡の楽しさを日本全国、老若男女様々な方に伝えることを目標に演奏活動をしています!日本文化の素敵なところを発見してもらえるきっかけになったらと思っています。
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津軽三味線という楽器は、昔から時代に合わせて様々に進化を遂げてきました。伝統文化の一つではありますが、変化を恐れず発展し続けるところがとても魅力的で挑戦しがいがあるところだと感じています。
今は津軽三味線を作っている材料、例えば胴の犬皮や撥の鼈甲不足が問題で、どう未来に音を繋いでいくかということが課題になっています。需要が少ないと、研究に費用がかけられないという話も聞きました。私たち奏者ができることは、音楽を奏でて津軽三味線ファンをたくさん増やすことだと思うので、先人たちから学びながら努力を続けていきたいです。
 

武田佳泉

2008年に白藤ひかりと二人で結成した本格派津軽三味線デュオ「輝&輝」として活躍。それぞれが全国大会で日本一になった経験を持つ。現在、関東地方を中心に全国的に活動を行っている。演奏曲目は古典である民謡から、POP調・ロック調を取り入れたオリジナル曲やカバー曲まで幅広い。津軽三味線ならではの迫力と、女性らしい繊細さを兼ね備えた表現を目指して日々精進している。 全日本津軽三味線競技会名古屋大会デュオの部にて6度の優勝を果たす。

 

2017年11月15日

【伝統文化を支える表具師】

 日本の伝統的な住宅様式である床の間を構成する要素の一つに、掛軸という調度品があります。掛軸は、紙漉き職人や機織り職人によって作られた和紙や絹に書家や絵師が作品を描いて、それらにさまざまな色や模様のある絹織物を組み合わせてできたものです。この掛軸を作るのが表具師と呼ばれる職人です。
今日は日本の伝統文化を支えてきた表具師について話をしていくことにしましょう。

 「伝統文化を支えてきた」ということは、古くから存在していたことになりますが、表具師はいつごろから日本の歴史上に登場してくるのでしょうか。一般的には、鎌倉時代から室町時代にかけて発展してきた床の間という文化と茶の湯の流行の時期に現れて、徐々にその存在がクローズアップされていきます。
特に日本文化の発展に影響を与えた江戸時代では、掛軸以外の仕事もこなすようになっていきました。衝立や屏風の作成といった王道の仕事から、本の表紙の作成や装丁、暦や地図の作成、時には指物や鋳物の修理、入れ歯をつくるといった変わり種の仕事まで、培ってきた技術や手先の器用さを活かした「なんでも修理屋さん」として幅広く仕事をしていました。
お店でこなす仕事以外では、年末年始になると武家や大きな商家に出掛けて、障子や襖、壁紙などの張替えを行う内装屋さんとしても活躍しました。現在、街で見かける表具屋さんもこの時と同じように内装屋さんの仕事をしていますが、それは江戸時代からの名残といえるでしょう。

 さて、表具師が仕事をする上で必要なもので、掛軸を作る技術の他に材料や道具があります。和紙、糊、糊盆、刷毛、甕などがあげられますが、これらの道具は江戸時代以前に作られた職人を描いた絵にも登場します。昔から変わらない材料や道具を使って、表具師は今日まで仕事を続けているのです。
しかし、この道具は表具師自らが作るわけではなく、和紙は紙漉き職人、刷毛は刷毛職人といった具合に、材料や道具を作る職人も存在します。つまり、掛軸一つを作るだけでも様々な職人が関わっているのです。このようにして出来上がる掛軸は、まさに職人の粋を結集した作品、とでもいえるでしょうか。

 長い年月をかけて研鑽を積み、様々な職人が作った材料や道具とともに試行錯誤しながら発展させてきた表具師の「つくる」という技術は、今、文化財修理の現場で「なおす」技術として活かされています。
特に昨今の科学技術を取り入れた技術の発展は目を見張るものがあります。文化財を修理する技術者もまた表具師と同じようにさらなる高みを目指し、日々努力を重ねているのです。日本の伝統文化に与えた表具師の存在は、現在においてもなお、伝統文化を支える存在であることはお分かりいただけたでしょうか。

 

 

  図6 人倫訓蒙図彙 表具師アップ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Hirata 裏打ち

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

平田 茉莉子

2013年3月に神奈川大学大学院博士前期課程修了。2013年4月より神奈川大学大学院博士後期課程に在学。経師、表具師の研究をしながら、2014年から2年間杉並区教育委員会文化財係にて学芸員を務め、2016年より国立公文書館修復係に修復専門員として勤務。

 

2017年11月10日

映画解説 vol.2

再び見出された祭礼の意味

映画『秩父の夜祭り―山波の音が聞こえる―』

  川﨑 瑞穂(国立音楽大学助手)

花火と屋台

 

 関東平野西縁の山岳地帯に位置する秩父地方の民俗芸能を、私はかれこれ10年あまり研究しているが、この地方の総鎮守である秩父神社の例大祭、通称「秩父夜祭」が開催される12月1日から6日にかけての混み具合には今でも驚かされる。この祭礼を題材とした映画『秩父の夜祭り―山波の音が聞こえる―』(1990年)は、12月2日(宵宮)と3日(大祭)の屋台巡行、歌舞伎、曳き踊り、花火や、10月からの準備の様子だけでなく、一般には見ることができない神事や歌舞伎の稽古の様子も収録しており、寒風吹きすさぶ秩父盆地を鮮やかに彩る冬の祭典を、様々な角度から楽しむことができる作品となっている。

 夜祭は2016年11月30日、33件の「山・鉾・屋台行事」の一つとしてユネスコの無形文化遺産に登録されたが、これら33件の行事は、疫病を流行させる神を追い祓うという意味を持つ祭礼が多い。本作に収録されている「虫送り」や「三匹獅子舞」(共に皆野町)、また秩父神社の夏の「川瀬祭り」(本作未収録)などにも、本来は同様の意味がある。これに対し、夜祭は別名「お蚕祭り」とも呼ばれ、かつては年一度の大絹市の日に行なわれたものであったことから分かるように、養蚕に密接に関係した祭礼である。本作には当時の養蚕の習俗も収録されているため、秩父地方の「映像民俗誌」として鑑賞することもできる。

 本作のナレーションでも述べられているように、夜祭は養蚕の守り神たる秩父神社の女神(妙見菩薩)と、武甲山の男神(蔵王権現)の年一度の逢瀬を表わすとも言われているが、養蚕が衰退した現在でもなお、夜祭は秩父内外の人々を魅了してやまない。なぜだろうか。なぜ人々は屋台を曳き回し続けるのだろうか。山車(だし)のような作り物を曳き回す行事自体は、日本だけではなく世界各地にみられるものである。私自身も、「東方の三博士」を模した作り物がでるキリスト教の行事をパリ大学留学中に見たことがあるが、有名なリオのカーニバルを想像しても分かるように、作り物を皆で動かすというその行動自体は普遍的なものであり、異なるのは時代や地域ごとに加えられる「意味」である。芸能や祭礼の意味は、必ずしもそれ自体に備わっているものではないのだ。

 本作に収録されている行事の一つである「龍勢(りゅうせい)」は、祭礼の「意味」を考える上で多くのことを教えてくれる。吉田町に伝承されているこの祭礼は、竹などで造ったロケットを打ち上げる一風変わった行事であるが、秩父を舞台としたテレビアニメ『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』(2011年)に登場したため、ご存知の方も多いかもしれない。最近ではアニメにちなんだロケットも打ち上げられるようになっており、アニメによって伝統的な祭礼に新たな「意味」が書き加えられているともいえよう。このアニメのファン(いわゆる聖地巡礼者)にとって、龍勢という祭礼の意味は、そのアニメ抜きには語りえない。祭礼の意味というのは、このように刻一刻と更新されるものであり、極端に言えば、安定的かつ絶対的な「意味」というものはない。秩父夜祭の意味は、祭礼を伝承する人々、さらには参加する各時代の人々が見出していくものなのである。

屋台と花火

三匹獅子舞

三匹獅子舞

奉納繭
秩父神社に奉納された繭
龍勢
龍勢(りゅうせい)

 
3949_001▼記録映画「秩父の夜祭り-山波の音が聞こえる-」(1990年制作/34分)
映画紹介はこちら
http://www.polaculture.or.jp/movie/thickbox/tab03_009.html?sc=_map

▼無料貸出はこちら
http://www.polaculture.or.jp/movie/rental.html

※ 次回は12月10日、「新野の雪祭り-神々と里人たちの宴-」をご紹介します。

2017年11月01日

私が笛を演奏させて頂いております三味線音楽(歌舞伎で使われている長唄や清元、常磐津など)では
篠笛と能管という二種類の横笛を使用しています。
このうち篠笛にはとても日本的な美意識が見て取れます。

材料になる篠竹(女竹)は細いまま節間が長く育つためとても笛の素材に適しているといえます。
間に節を入れないためスラリとしたすがたに仕上がり装飾もほとんどしません。

このとてもシンプルで飾り気のないものを我々日本人は端正で美しいと感じます。
しかも自然のままに竹の形をほぼ残すのでそれぞれに竹の皮などの模様があり自然な景色となります。
この様な偶然の産物として出来上がる部分をとても大切なものとすします。

また、長く使って参りますと指のよく当たるところが削れたり、
孔の面が自然に取れてきたり白っぽい肌色だった表面が飴色に変ってきたりします。
このゆっくりと変化していく様子も劣化とは捉えず、味わいが深まってきたと感じます。

新しく切り出してくる竹ではなく、煤竹という素材を使って作られることもあります。
この場合は変化を楽しむことが出来ませんが、既に百年単位で囲炉裏の煤によって
自然にゆっくりと出来上がった汚れのような模様をとても美しく面白いものと見て
そのまま楽器に活かして作るのです。
日本人は時の移ろいの中でゆっくりと変化していく全てのことを、
とても愛おしく美しいものだと感ずる感性を昔から持っています。

例えば分かりやすいところですと、桜の枝がほんのりと薄紅色になってくると、そこに美しさを見出し、
咲き始めると春の訪れに胸をほころばせます。そして、桜が満開になれば木の元に集まり、
さらに花びらの散る姿にも刹那の美しさを感じます。

また桜のように目で見て取れない何十年、何百年もかけてゆっくりと移ろっていく物、
寺院のような木造建築物や茶室、庭園、お茶のお道具にも時の流れが沁み渡り
味わい深いものへと変わって来た美しさを感じます。

現代は世界がぐっと近くなり、なにかと便利になりました分、時間の流れも速く世知辛い世の中と
なってきております。それゆえ常の生活の中ではこのような感覚をなかなか見ることが出来ません。
だからこそ日本の伝統文化にふれることは現代人にとって、とても大切で、
同時にとても必要なことになってきているように感じます。

「そんなこと言っても、難しい!」と思われる方も沢山いらっしゃるかもしれません。
でも、実はそんなに難しく考えないでください。
触れてみるととても自然に踏み込んでいけるものですよ。
そんなところになにかDNAの囁きを聞けるかもしれません。

 

福原 寛

平成4年東京藝術大学音楽学部邦楽科修士課程終了。
他ジャンルの演奏家(インドバンスリーの巨匠ハリプラサード・チャウラスィアー氏、
サムルノリの金徳珠氏、オイリュトミーの笠井叡氏など)や、語りや朗読とのコラボレーション など
様々な演奏表現にも積極的に参加。歌舞伎座外部協演者として、数々の歌舞伎座舞台で活躍。
国立音楽大学、東京学芸大学、国立劇場養成科などにおいて講師を務め、後進の指導も精力的に行っている。

  2017茶会8 2017茶会8

 

 

2017年10月13日

 

 

五月人形・菖蒲湯・鯉幟等の風習が全国に「男児の節句」として普及しており、
これが現在の「こどもの日」につながっていることは、皆さんご存知でしょうが、
この時期には、日本の各地で凧揚げ大会も行われることについてはご存知でしょうか。

 

IMG_3702私の調査対象である「浜松まつり」もその中の1つです。
私はオーストラリア人ですが、毎年、浜松の人々に温かく迎え入れていただき、
様々な体験をすることが出来ています。
今日は、この場を借りて、毎年5月3日〜5日の3日間で行われる「浜松まつり」について紹介したいと思います。

ところで、「凧揚げ」というと日本の皆さんは「冬」や「お正月」を想像するそうですね。
しかし、浜松まつりの凧は、子供の日に揚げられます。
それは、まつりの起源に関わってきます。
浜松まつりの起源は室町時代に引間城の城主であった飯尾連竜の長男「義廣公」の誕生を祝うため、ある住民が「義廣公」を記した大凧を揚げた事とされています。
信憑性については近年疑われていますが、参加者にとっては大切なシンボル的な話です。しかし江戸時代の中期からの記録があり、とにかく長い伝統があることは事実です。

悲しい話ですが、戦時中は、一時中断されていました。
しかし、1948年に、浜松市連合凧揚会主催で第1回の凧揚げ合戦が復活しました。その2年後に、正式名称が「浜松まつり」と定められ、(2011年の震災による自粛を除き)今に続いています。

 

 

 

 

IMG_3564昼間に行われる凧揚げ大会は長男の誕生祝いのためのまつりであり、
各町の町紋(凧印)とともに、以前の1年間に生まれた長男(近年は次男・女児などでも)の名前が、6〜10畳の面積の紙が使われる大凧に記されています。

夕方・夜には「御殿屋台引き回し」と「練り」が行われます。
町内練りの基本的な特徴は、

①町紋が付いた法被と提灯で練り歩くこと、
②初子の自宅で「万歳三唱」をすること、
③お返しとして御馳走されること
です。飲酒をすることも、樽から日本酒を振り撒くこともしばしば見られます。
一晩でなんと5時間ほど、全身を酒まみれになりながら歩くことになります。

 

 

 

IMG_3674室町~戦後~現代と時代に合わせた変化もあります。
浜松まつりの参加地区の中で、特に住民の少ない千歳町は
近隣の外国人をよく受け入れていることが有名となり、
マスコミ取材が多くなっています。
出身の国は違っても、まつりを祝福する気持ちは、みんな変わりはありません。
沢山笑って、沢山しゃべります。そして、沢山の文化が交錯する。
現代の浜松まつりでは国籍も性別も関係なく、全体が一体となって「ハレ」の場を作りだしています。

 

 

 

 

サイモン・ジョン

オーストラリア出身。2006年神奈川大学大学院歴史民俗資料学研究科博士前期課程修了。
2012年同後期課程満期退学とともに、神奈川大学国際センターで勤務。

 

2017年10月10日

 映画解説 vol.1

オロチの神楽と変装=変奏の妙
―映画『神々のふるさと・出雲神楽』―

  川﨑 瑞穂(国立音楽大学助手)
 「芸術の秋」とはよくいわれるが、秋祭りに付随して各地で神楽(里神楽)が多く行われるようになるこれからの時季は、いわば「神楽の秋」であるともいえる。神楽は天岩戸神話、すなわち弟神スサノオの悪行を恐れた姉の太陽神アマテラスが岩戸に隠れたという物語の中で、芸能神ウズメが披露した舞にはじまるとされている。ゆえに「岩戸開き」の演目を重要視する神楽も多いが、今回紹介する映画『神々のふるさと・出雲神楽』で採り上げられている島根県の「出雲神楽」では、出雲に降ったスサノオによるヤマタノオロチ退治が重要な演目となっており、映画でも各地域のオロチ退治の演目がクローズアップされている。

  出雲神楽L



 オロチのモチーフの由来ともされる斐伊川(ひいかわ)の北方、島根半島に鎮座する佐太神社の芸能「佐陀神能(さだしんのう)」(島根県松江市鹿島町)の紹介から本作は始まる。ここでは鬼面のオロチとスサノオとの闘いが鮮やかに映し出されているが、次の「見々久(みみく)神楽」(出雲市見々久町)では、龍頭のオロチとスサノオとの闘いが収録されており、趣向の違いがよくわかるように構成されている。次に、世界遺産の銀山で有名な石見地方に視点を移し、同地に伝承されている「有福(ありふく)神楽」(浜田市下有福町)が紹介されているが、この神楽ではオロチが伸縮する筒状(まさに蛇腹)の衣装「蛇胴(じゃどう)」で登場し、口から火花を吹く。そして、最後の「奥飯石(おくいいし)神楽」(飯石郡飯南町・雲南市)では、龍頭のオロチが登場するが、ここではオロチが幕(蛇幕)で覆われており、さながら獅子舞のようである。


 このように、出雲地方や石見地方ではオロチが様々な形で表現されているが、本作には退治シーンが比較的長く収録されているため、それぞれの趣向をじっくり見比べることができる。オロチ退治の物語は、神話学ではアンドロメダ型、すなわち怪物に囚われた美女を英雄が救い出すという世界中に存在する類型に属するものであるが、本作を見ると、この怪物(オロチ)の「変装」が、各地域でいかに「変奏」されているのかがよくわかる。


 無論、「変奏」とは音楽の技法の一つであるが、オロチを表現する笛のメロディー、太鼓や胴拍子のリズムもまた、それぞれの神楽で巧みに「変奏」されており、一つとして同じものはない。神楽はもちろん目でも楽しめるが、その囃子の音が無ければ雰囲気を十分に体感することができない。本作では、神楽のシーンではBGMがなく、ナレーションも必要最低限であるため、それぞれの囃子の違いを聴き比べることができる。また、歌が歌われるシーンでは、ナレーションがその詞章(歌詞)を復唱しているため、どのような内容を歌っているのかもよくわかる。 


 トグロを巻くオロチが登場する有福神楽のナレーションでは「魅せるために工夫している」と述べているが、それに加え、他地域といかに違いをつけるか、すなわち「変奏」するかという工夫も、民俗芸能においてはまた重要な力のいれどころなのである。「創造」が個性なのではなく、「変奏」こそが個性であることを、民俗芸能は教えてくれる。本作を通してもし神楽に興味が湧いたならば、秋の夜長、各地を訪ね、神楽の「変装=変奏」の妙をあじわうのもまた一興である。

佐陀神能 鬼面のオロチ

  3845_001

見々久神楽 龍頭のオロチ

 3846_001
有福神楽 蛇胴のオロチ
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奥飯石神楽 蛇幕のオロチ


3850_001▼記録映画「神々のふるさと・出雲神楽」(2002年制作/41分)
映画紹介はこちら
http://www.polaculture.or.jp/movie/thickbox/tab03_001.html?sc=_map

▼無料貸出はこちら
http://www.polaculture.or.jp/movie/rental.html

※ 次回は11月10日、「秩父の夜祭り-山波の音が聞こえる-」をご紹介します。

2017年10月10日

【映画解説(民俗部門)講師のご紹介】

川﨑先生写真10月より、毎月10日を「映画の日」とし、弊財団の記録
映画の丸分かり解説を、専門家の先生にしていただき
ます。

今回は民俗芸能部門(全18作)の映画解説をしていた
だく、川﨑瑞穂先生にお話をうかがってきました。

(以下、財団職員:財団、川﨑先生:先生)

...

[民俗芸能の見所について]

財団:民俗芸能はどんなところが見所ですか?

先生:同じジャンルの民俗芸能でも、地域ごとに違いがあって、同じものは全くないという多様性
    が面白いと思います。

財団:「多様性」ですか!ポーラ・オルビスの理念として、「多様性を認める」というものがあります。
    内面の美を目指す弊財団にとって、やはり、多様性は重要なキーワードですね。民俗芸能
    の多様性とは、どのようなものでしょうか?

先生:そうですね・・・例えば、獅子舞。隣接した二つの地区の獅子舞を比べても、コミュニティーが
    異なるだけで衣装、舞踊、囃子などが全く違うことがよくあるんです。

財団:なるほど。

先生:かと思うと、今度は全く離れた土地で、同じようなメロディーや所作が出てくる。これについて
    話すと専門的になってしまって面白くないでしょうから、今回はお話しませんが・・・。
    私が皆さんにお勧めしたいのは、是非、ご自身の住んでいる土地だとか、お生まれになった
    土地だとかの芸能を一度見てください、ということです。そして、それをベースにして他の芸能
    を見ることで、「あ、ここが違うな/同じだな」というように鑑賞すると、これまでなかった様々
    な発見があるのではないでしょうか。

[映画の見所]

財団:公益財団法人ポーラ伝統文化振興財団の記録映画は、どんなところが見所ですか?

先生:民俗芸能の主要なジャンルを網羅的に扱っているのは、本当に素晴らしいお仕事だと思い
    ます。

財団:ありがとうございます。

先生:そして、作品ごとに着眼点が異なるため、民俗芸能の様々な側面の知識を得ることができ
    る映画なのではないでしょうか。基本は押さえつつ、さらにそれぞれの深みにまで言及して
    いる、そんな映画だと思います。

財団:では、芸能の初学者の方にも分かりやすい映画であると言えるでしょうか?

先生:はい。そう思います。是非、これから日本の芸能について学ぶ若者や、日本の文化を学ぶ
    留学生が見ると良い映画だと思います。

[フランスへの留学について]

財団:ところで、先生は日本の民俗芸能の研究がご専門ですよね?それなのに、なぜパリ大学
    (ソルボンヌ大学)に留学したのですか?

先生:はい、よく聞かれる質問です。皆さん不思議に思われるんですね。一番の理由としては、
    民俗芸能の研究にフランスの構造人類学のアプローチを応用していたためです。また、
    専攻としている「民族音楽学」の最新の知識を得るためにパリ大学の博士課程に留学しました。

財団:そうなんですね!パリへの留学と聞くと、とてもお洒落な雰囲気があります。

先生:そんなことないですよ。家、大学、図書館にしか、ほとんどいませんでしたから。研究に埋没し
    すぎて、買い物にも行けず、家の前にあったケーキ屋さんのケーキだけで生活していた時期
    もあります。

財団:ケーキだけで生活!羨ましいような、体重が心配のような・・・

先生:(笑いながら)それが、いつもより頭を使ってるからか、どんどん痩せたんです。不思議でしょ?
    ちょっと不幸自慢のようになってしまいましたが、それだけでなくパリでは、講演会や研究会で
    の第一線の研究者たちとの交流は、私にとってとてもいい刺激になりました。

[今後について]

財団:今後、どんな研究をされていきたいですか?

先生:そうですね、これから記録映画の解説を書く中で示していけたらと考えておりますが、具体的
    には、来年1月に出版する著書(博士論文)までは秩父地方の神楽を研究していましたので、
    今後は地域・ジャンルを広げて民俗芸能の音楽を採取・分析し、民俗芸能の音楽の様々な繋
    がりを研究していきたいと思っています。


■川﨑瑞穂先生
<経歴>
2014年9月~2015年7月 パリ第4大学(ソルボンヌ大学) 音楽学博士課程 留学
2016年3月 国立音楽大学大学院 音楽研究科 博士後期課程 音楽研究専攻 音楽学研究領域 修了

<受賞歴>
2011年3月 国立音楽大学「有馬賞」
2012年7月 日本ジラール協会「ライムンド・シュヴァーガー記念論文賞」
2013年3月 国立音楽大学大学院「最優秀賞」
2013年11月 遠野文化研究センター「遠野文化奨励賞(佐々木喜善賞)」
2015年11月 日本風俗史学会「日本風俗史学会研究奨励賞」
2016年4月 日本科学協会「笹川科学研究奨励賞」
2017年2月 川崎市、川崎市教育委員会、川崎市文化協会 「川崎市文化祭奨励賞」

<著書>
(共著)『遠野学 vol.3』遠野文化研究センター、2014年
(共著)Apocalypse Deferred: Girard and Japan, University of Notre Dame Press, 2017.
(単著、刊行予定)『徳丸流神楽の成立と展開―民族音楽学的芸能史研究―』第一書房、2018年刊行



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