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2019年10月25日



映画解説 vol.17

映画『伝統の技と心 竹工芸 飯塚小玕斎』

弟子の条件

 

中畑 邦夫 (博士 哲学)

001

 「理想的な教師とは?」、「部下を正しく指導するには?」、「リーダーの条件とは?」等々、世の中、広い意味での「すぐれた師」について語られることは多い。だが、「すぐれた弟子」については、どれだけ語られているだろうか?「学び」の場における「主役」は、「学ぶ側」つまり「弟子」なのだから、本来ならば大切なのはむしろ「すぐれた弟子とは?」という問いなのではないか。今回、飯塚小玕斎(いいづか しょうかんさい)氏の話を聴きながら、私はそんなことを考えた。同時に修業時代の小玕斎氏こそ、まさに「すぐれた弟子」と呼ばれるにふさわしい、そう思った。

002

 竹工芸の天才と呼ばれていた父・飯塚琅玕斎(いいづか ろうかんさい)氏の後を継ぐはずであった兄が亡くなったため、小玕斎氏は代わりに後継者となるべく、琅玕斎氏のもとで修業することになった。琅玕斎氏の指導は小玕斎氏を戸惑わせることもあったようである。たとえばある時、小玕斎氏が自分の作品を琅玕斎氏に見せに行くと、琅玕斎氏は作品をしばらく黙って見続けた後、おもむろに両足で踏みつぶした、というのである。こうしたことは何度かあったという。そのようなことをされても決して修業をやめなかったのは、小玕斎氏が「すぐれた弟子」であったからだ。師から必ずなにかを学ぶことができるはずだと信じる、そういった姿勢が「弟子の条件」である。

師の指導に意味がないと考えるならばその人を師とする理由はなくなり、自分もまた弟子であり続けることすらできないのだから。「すぐれた弟子」は師の指導の意味を必死に考え、やがて自分なりの解釈ができるようになった時、修業は終わっているのである。師が自分の作品を踏みつぶしたのは、あれこれ理屈を考えるのをやめて「白紙」の状態に自分を導くためだったのではないか、小玕斎氏はそう振り返る。

 ところで「白紙」という言葉は哲学の歴史において特別な意味をもつ。イギリスの哲学者ジョン・ロック(1632年~1704年)は、人間が誕生してから知識を獲得してゆくプロセスを、あたかも「白紙(タブラ・ラサ)」に知識が書き込まれてゆくようなものだと説明した。この説明にならえば、琅玕斎氏によって「白紙」の状態へと導かれた小玕斎氏は、いわば新たに「誕生」した、ということになる。「竹工芸ほど作者自身の深い感動を必要とするものはない」、ナレーションではそう語られている。父の後継者となることを決意した当初はただ「使命感」で仕事をしていた小玕斎氏が、「深い感動」を抱きながら仕事をするようになった。琅玕斎のもとでの修業は、小玕斎氏の人間としてのあり方そのものを変えていったのである。

 小玕斎氏の人生は、工芸の世界をこえて、私たちの模範となり得るであろう。人は何かを学ぼうとする際、あたかも「すぐれた弟子」のようになることによって、人間としてのあり方すら変えてゆくこともできるのかもしれない。それは「学び」という営みがもつ大きな力であろう。伝統をになって生きる人々の言葉は、そのようなことをも、私たちに気づかせてくれる。

 

003

飯塚家三代(左から弥之助(後の琅玕齋)、鳳翁、二代鳳齋)

004

琅玕齋氏

005

 

若き日の小玕斎氏

※写真は、すべてポーラ伝統文化振興財団による撮影

 


  ※記録映画「伝統の技と心 竹工芸 飯塚小玕斎」(1986年制作/30分)
表紙

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