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2019年12月25日



映画解説 vol.19

映画『にんぎょう』

神による「創造」から人間による「創造」へ

 

中畑 邦夫 (博士 哲学)

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 今回の映画はこれまでご紹介してきた映画とは異なり、一人の作家とその作品について解説されるというかたちではなく、我が国における人形の歴史や、人形が人々の生活の中で担ってきた意味について語られつつ、現代に活躍する四人の人形作家たちが紹介されるというかたちになっている。

 映画の冒頭で、人形の起源について、人々が人のかたちにこねた土をたまたま土器と一緒に焼いたことがはじまりではないか、といった説明がなされている。そして、土器が「器(うつわ)」つまり「入れもの」であるのと同じように、人形もまた、人がその中に自分の心を入れる「入れもの」であると言われる。

 人形は、「ひとがた」とも読まれるように、人間の「似姿(にすがた)」である。そして、たとえばキリスト教では人間の尊厳の根拠が、人間が「神の似姿」であることに求められる。神による人間の創造と人間による人形の創造とをこのように類比的に考えるならば、映画の中で石川潤平氏の仕事が紹介される際に語られるように、人形作りが「神様のような仕事」とされてきたことも、また、これも映画の中で紹介されている「流し雛」のような人形をめぐる数々の宗教的儀式が行われてきたことも、自然なことであるといえよう。

 そして人形は、人間にとって両義的な意味を持つ。すなわち一方で、人形は人間にとって親しみのある存在である。このことは、桐塑人形作家の市橋とし子氏の「自分の人形は自分でつくる」という言葉に、そして衣裳人形作家の野口園生氏の作品が紹介される際の、あたかも一人の人物について語られているかのようなユーモラスなナレーションに、端的にあらわれている。しかし他方で、人形をめぐる怪談などが数多く存在することからもわかるように、人形とは人間にとって、どこかよそよそしく、得体の知れない存在でもある。こけし人形が「花の模様をまとって人間に化けた木そのもの」であるという小椋久太郎氏の言葉には、人形のこのような側面が見事に表現されているのではないだろうか。

 人形がそもそも宗教的な意味をもっていたからこのような両義的な意味をもつようになったのか、あるいは逆に、人形がこのような両義的な意味をもっていたから宗教的な意味をもつようになったのか、それはともかく、映画の冒頭で言われるように、人形は、人類の歴史において、土器という「発明」と時をおなじくしてなされたもうひとつの「発明」であったと言えよう。そして現代、新たな「発明」をめぐって、人間は希望と不安とがいりまじった両義的な想いを抱いている。クローンや、AIを応用したロボット、である。姿形のみならず知性や感性をも含めた広い意味での新しい「人形(ひとがた)」つまり人間の「似姿」に、人間はどのようにかかわっていけばよいのか。我が国における、人形と人間との長い歴史の中には、そういった問題を考えるためのヒントが、隠されているかもしれない。

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※写真は、すべてポーラ伝統文化振興財団による撮影

 


  ※記録映画「にんぎょう」(1992年制作/34分)
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