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2019年06月25日



映画解説 vol.14

映画『鍛金・関谷四郎 -あしたをはぐくむー』

 

中畑 邦夫 (博士 哲学)

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 近代の科学技術は、自然界の物質の中に人間にとって有用なものとなる可能性を見出し、それを活用しつづけてきた。科学技術の対象としての物質は、人間にとって有用なものとしてのみ存在意義を認められるのであり、場合によっては人間の一方的な都合によっていわば「無理強い」をされてまで有用なものに変えられてしまう、「もの言わぬ素材」であるといえよう。そして「無理強い」の結果、現代では本来ならば自然界に存在しない物質さえもが存在するようになっている。ドイツの哲学者M・ハイデガー(1889年~1976年)は、技術というものの本質を「露わに暴く(あらわにあばく)」ことであるとしたが、「暴く」という暴力的な表現は科学技術のこのようなあり方を的確に表現するものであるといえよう。

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 「鍛金家は素材に逆らわない」、「技術はたんなる渡し船のようなもの」、鍛金家の関谷四郎氏はそう語る。つまり、関谷氏は素材に「無理強い」をしないのである。「人それぞれに個性があるように、金属も個性をもっている」、関谷氏の仕事は、金属という素材に秘められた個性を発見することなのであり、いわば素材の「声」を聴いて素材と「対話」することなのである。

素材に「無理強い」をする技術と、素材と「対話」をする技術と。この二つを決定的に異なるものとしているのは、おそらく「美意識」の有無なのだ。関谷氏の仕事は、素材に「新しい美」を与えることであるという。しかし、美意識をもつ、ということは、ただたんに美しい作品をつくり出す能力や作品の美しさを理解する能力をもつ、ということだけを意味するのではない。素材とのかかわり方、技術の用い方など、工芸家としてのみずからのあり方そのものを吟味する能力をもつ、ということなのだ。

「吟味のない生は人間が生きるに値する生ではない」とはプラトン(BC427年~BC347年)が伝えるソクラテス(BC469年頃~BC399年)の言葉であるが、たしかに、みずからのあり方を吟味する能力をもつものは、少なくとも現在のところは、人間だけである(もっとも、いわゆるAIをめぐる「技術」が今後どのように進歩するのかはわからないが)。

だからこそ関谷氏の言うように「鍛金を工芸品にまで高めるためには、技術の練磨も必要だが、同時にまた人間の修行も大切」なのである。伝えられなければならないのは、工芸家として「みずからのあり方を吟味する」という人間に固有の能力なのであり、後継者を育成するということはまさに人間らしい人間を育てるということなのである。そういった意味では、関谷氏の仕事はまさに、人間らしさが生き続ける「あした」をはぐくむことなのである。

 

 

 

中畑 邦夫 (博士 哲学)

1971年生まれ。千葉県柏市出身。上智大学大学院博士後期課程修了。博士号取得後は上智大学等で哲学、倫理学、宗教等の授業で教鞭を執る。また「哲学対話」の普及・実践にも力を注いでいる。

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※写真は、すべてポーラ伝統文化振興財団による撮影

 


  ※記録映画「鍛金・関谷四郎 -あしたをはぐくむ-」(1983年制作/30分)

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