「世阿弥の能」というタイトルは謎めいている。テーマが「世阿弥が作った能」なのか、「世阿弥と能との関わり」なのか、判断できないからである。じつは本映画は両方のテーマを兼ね備えた意欲作で、上映にかかる49分間、重厚かつ華麗な時間が流れる。
先月、ご紹介した「狂言師・三宅藤九郎」では、和泉流狂言師の三宅藤九郎が数々の狂言を演じていた。狂言が対話を中心とするセリフ劇であるとするならば、ペアで演じられるしきたりの能は、ミュージカルであり仮面劇と言える。能の音楽は謡(うたい)という声楽と、囃子(はやし)という楽器からなる。これらは聴覚的な美を示すものである。一方、視覚的な美を提供する要素もある。能面と能装束(のうしょうぞく。能に用いる衣装)である。能面には約60種類があり、役柄によって使いわけている。ことに室町末期に完成した女面の美しさには定評がある。能装束は、唐織(からおり)に代表されるような贅を尽くしたものが多い。
能の芸術的な基礎を築いたのは観阿弥(1333~1384)・世阿弥(1363?~1443?)という天才父子である。世阿弥は能作者・能役者・能の理論家・観世座の棟梁という四つの役割を果たした人物である。幼い頃、室町三代将軍の足利義満の寵愛を受け才能を開花させた。80歳(数え年)という当時としては長寿を誇ったが、晩年に息子の元雅(もとまさ)に先立たれ、佐渡に流された。シェイクスピア(1564~1616)に先立つこと約2世紀に活躍した世阿弥はドラマになるような波瀾万丈の人生を送った。事実、小説に杉本苑子『華の碑文―世阿弥元清』、瀬戸内寂聴『秘花』、戯曲に山崎正和『世阿弥』がある。
本映画は、前述した4つの役割を果たした世阿弥をキーワードに、能という演劇の本質、世阿弥の生涯、そして能の歴史を紹介する形となっている。加賀美幸子の落ち着いたナレーションによる解説が全編に流れるのも特徴であろう(一部、観世榮夫も語っている)。
本映画は世阿弥作の能4番を取り上げている。冒頭の〈清経(きよつね)〉は「音取(ねとり)」という特殊演出による上演で、一噌幸政(笛方一噌流)が吹く流麗な笛の音とともに平清経の霊が妻の夢のなかに現れる。シテ(主役)は友枝昭世(シテ方喜多流。2008年に人間国宝となる)。
続いて能の歴史を辿る映像となり、その流れのなかで観阿弥作〈自然居士(じねんこじ)〉(シテ、友枝昭世)が紹介され、自然居士が人買いから幼な子を取り返す緊張に満ちた場面が描かれる。
世阿弥の功績のひとつに夢幻能(むげんのう)を完成したことがあげられる。夢幻能とは旅の僧の夢のなかに亡霊が現れ過去などを語るが、夜が明けるとすべては僧の夢の出来事だったという結末を迎える作劇法である。世阿弥の能〈井筒(いづつ)〉はその代表作であり、本映画では、井筒の女(紀有常の娘)の霊が在原業平を偲ぶ舞から最後までが演じられる。シテは山本順之(シテ方観世流)。
〈砧(きぬた)〉は世阿弥が最晩年に作った自信作である。本映画では、夫の帰りを待つ妻が登場し、侍女とともに砧を打つ前半から、死後に地獄に堕ちた妻が業火に焼かれ苦しむ様子や、夫の祈りによって救われる最後までがたっぷりと演じられる。シテは浅見真州(シテ方観世流)。
最後の能は〈融(とおる)〉。月明かりの冴える秋の夜、源融の霊が廃墟となった六条河原院で昔を偲ぶ舞を舞う。シテは本田光洋(シテ方金春流)。
人から人へ伝わる芸能は必ず変化を伴う形で継承される。1991年制作の本映画に出演された能楽師のなかには鬼籍に入られた方もおられ、現在では鑑賞することが叶わない場合もある。その方たちの至芸を拝見していると、本映画がバランスよく芸術性と記録性を保持していることが確認できる。と同時に、能の歴史や世阿弥の生涯を丁寧に追っていることを考えると、教育映画としての役目も担っている。ポーラ伝統文化振興財団設立10周年を記念する優れた映画と言えよう。
(文中、敬称略)
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