2018年02月10日
映画解説 vol.5
民俗芸能のオニが教えてくれること
映画『鬼来迎―鬼と仏が生きる里―』
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川﨑 瑞穂(国立音楽大学助手) |
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多くの祭礼や民俗芸能で彩られる夏の房総半島。千葉県山武郡横芝光町の「虫生(むしょう)」という小さな集落では、先祖の帰るお盆の8月16日、広済寺(こうさいじ)の施餓鬼供養の一環として「鬼来迎(きらいごう)」という芸能が行われる。今回紹介する映画『鬼来迎―鬼と仏が生きる里―』(2013年)は、地獄を表現したこの仮面劇を、伝承者たちの想いとともに描き出した作品である。
夏の日差しに照らされた虫生の美しい田園風景から、映画の舞台は雅楽の響きとともに奈良に移り、當麻寺(たいまでら)の「聖衆来迎練供養会式(しょうじゅらいごうねりくようえしき)」が映し出される。仏を主人公として極楽浄土を可視化したこの法会と、鬼を主人公として地獄を可視化した「鬼来迎」のコントラストが巧みに表現されている。中世ヨーロッパで「メメント・モリ」(死を想え)という言葉が流行し、突如として与えられる死が、生者と死者の交歓、すなわち「死の舞踏」として可視化されたように、死後の世界は各国で様々に表現されてきた。鬼来迎において、死者は閻魔大王による審判を経て、釜茹でをはじめとした鬼の責め苦を受けるが、そこに菩薩が救いの手をさしのべる。最後には仏が助けてくれる、ということが、人々にとっていかに重要であったのかが分かる。しかし、ナレーションでも語られているように、この芸能は地元で「鬼舞」と呼ばれており、あくまで「鬼」が来迎するものである。なぜ、かくも人々を責めさいなむモノをわざわざ招き入れるのだろうか。
そもそも「鬼」とは何者か。今でこそ虎柄のパンツを履き、金棒を持った悪者として追い祓われるだけの存在であるが、日本各地の民俗芸能を見回すと、鬼が主人公になっているものが多く、鬼来迎のように、様々な面や装束で表現されている。「鬼(オニ)」という名前は、一説には「隠(おん)」から来ているとされており、存在の手前、あるいは存在の彼方に踏みとどまっているのが鬼であるともいえる。見えるようで見えないという鬼の特徴は、その「字」にも端的に表れている。鬼来迎の「鬼」という字には、正式には「ツノ」がない。名前自体にも差異がある鬼というモノは、いわば「書かれる」ことをも拒否するモノであり、定義されることを拒絶するモノなのである。
鬼来迎では、このように定義ができないモノを、毎年わざわざ自分たちの中に招き入れる。鬼のなすがままになる死者(=演者)は、理解不可能な他者である鬼を、理解不可能なまま受け入れている。そこに鬼来迎が宿している「絶対的な歓待」の思想を読みとることもできよう。本作には、虫生に移り住んだ男性が、鬼来迎で鬼婆を演じるべく、先輩に教えを乞うシーンがある。先輩にとって新来の住民が他者であるのと同じく、新来の住民にとって、演じるその鬼はまさに他者である。老婆のようにみせるのが難しいと語る新来の住民に、先輩はそのコツを優しく、かつ情熱的に伝授する。鬼来迎と虫生の人々が教えてくれる「他者を歓待する思想」は、これからの時代、様々な「外」の人々に向き合うときに課せられてくる態度でもある。本作を通して、毎年2月3日に退治する鬼に、少し思いを馳せてみてはいかがだろうか。
註:本稿は2018年1月27日に行なった同名の講演(於 くにたち市民芸術小ホール)の発表原稿に基づいている。
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赤鬼
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「大序」
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映画『鬼来迎―鬼と仏が生きる里―』パンフレットより、鬼来迎の「鬼」の字
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釜茹でをする黒鬼(左)と鬼婆(右) ※今回掲載した写真は、ポーラ伝統文化振興財団による撮影
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※記録映画「鬼来迎 鬼と仏が生きる里」(2013年制作/38分)
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※鬼来迎保存会は、第30回伝統文化ポーラ賞地域賞の受賞者です。
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※次回は3月10日、「-琵琶湖・長浜-曳山まつり」をご紹介します。