2019年03月11日
映画解説 vol.16
人形と身体 映画『伊那人形芝居―明日へつなぐ伝承のチカラ―』
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川﨑 瑞穂(神戸大学・日本学術振興会特別研究員PD)
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長野県南部の伊那谷と呼ばれる地域では、関西方面から将来された人形芝居や歌舞伎が娯楽として根付き、今日まで様々な民俗芸能として伝承されてきた。一時は30か所以上で行われていたとされる人形芝居も、今では4か所のみとなっており、それらも衰退、断絶を経て今に至る。今回紹介する映画『伊那人形芝居―明日へつなぐ伝承のチカラ―』では、これらの人形芝居が辿った別様の道を描き出している。若者の関心が離れていき、女性の積極的な参加によって伝承されるようになった早稲田人形。クラブ活動に力を入れて若者による継承を目指す今田人形・古田人形。持ち前の反骨精神で継承する黒田人形。各々の道は、民俗芸能の直面する今日的問題とその解決の可能性のいくつかを提示しており、各地の現状を考える上でも有益な記録となっている。
本作でクローズアップされているのは、次世代を担う若者たちの活躍である。クラブ活動を垣間見ると、人形を扱う若者たちは、伝承者の操作を模倣することを通して、その動かし方を学んでいる。「もっと迫力がないとだめ、観る人はみんな話を知っているのだから」、と伝承者の厳しい指導が入る今田人形。96歳の女性と中学生たちの見事な競演は、その練習の成果である。人間によって操作される道具(マニプランダmanipulanda)としての「人形」が、ここでは「伝承者」と「後輩」という、異なる身体(しんたい)を結んでいる。人形や、その操作を教えるための文化的な「道具」たる言語によって、彼/彼女らは人形芝居という共同作業の中で自己を超越し、ひいては共同的な身体として生きることとなるのである。
人形芝居の上演。そこでは人形という媒介によって他者の身体が私の身体の延長と化し、人形遣いたちは字義通り「三位一体」の感覚を得るわけであるが、人形芝居という共同作業に対する「関心」という次元では、共同体の成員全てが一致しているとは限らない。早稲田人形を眺める高校生の、関心から無関心までの様々な表情。同じその人形芝居を泣きながら観るお年寄りの表情。そして、義太夫節をお茶畑で口ずさむ女性太夫の温かな表情。人々の多様な意識がせめぎあう中で人形芝居が上演されていることを、それらの表情は物語っている。人形への関心の「不均衡」が増大し、ある時代には伝承の危機を迎えることもある。だがその段階ではじめて、人は人形(芝居)の向こう側に絶対的な他者がいたことを思い出すのであり、異なる価値観を有する他者との関係性の新たな構築が始まるのである。
早稲田人形では中学生の創作による演目「田番叟」(たんばそう)が生まれ、今田人形では新たな世代のために現代語訳の演目が生まれ、さらにはその「危機」からの復活自体が、本作という「物語」を成立せしめてもいる。いつの時代も、人形自体は何も語らない。しかし、少なくともその人形を動かし、言葉を吹き込むことによって、彼/彼女らが何らかの形で「他者」に向かい合っていることは確かであり、そこにおいて自己/他者の身体もまた、確かな「存在」となるのである。かくも両義的なる存在としての「身体」が、「人形」という擬似的な身体を通して顕現する場、それが「人形芝居」であると言えるかもしれない。
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黒田人形
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今田人形の中学生たちと金井美昇(金井はま子氏)(写真右奥の4名)
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古田人形
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早稲田人形の創作演目「田番叟」
※写真は、すべてポーラ伝統文化振興財団による撮影
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※記録映画「伊那人形芝居―明日へつなぐ伝承のチカラ―」(2010年制作/36分)
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※次回は4月10日、「飛騨 古川祭―起し太鼓が響く夜―」をご紹介します。