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2018年12月18日

 

 宗教というものは、人々の生活に多大なる影響を及ぼしています。しかし、その中心である「神」は、科学的に証明できません。そこで、神楽を例にあげ、我々日本人が、どのようにその存在を感じ取ってきたのかを探ってみようと思います。

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 (写真① 布舞)

 最も分かりやすいのは、ポゼッション、つまり神を人間の体に宿す儀式です。 岡山県の備中神楽など、一部の神楽には、今尚受け継がれています。
 ここでは、筆者が2015年冬に参観した神光社による 託宣神事を例にあげます。 一人の太夫が真っ白な長い布を持ち、「ゴウヤゴウサマ」と歌いながら、舞台をぐるぐる回ります。これを布舞といいます。 布舞のクライマックスは、舞人が叫びながら倒れこむ場面です。これは、憑依の状態に入ったという合図です。その後、 神を宿した太夫は、舞台中央に座らされます。他の太夫が米粒をお盆にのせたものを用意します。神がかりの状態の太夫が掴みとった米の数で、その年の吉凶を占います。ここでは、自己を失い、神となった太夫の様子と、米の数という具体的かつ客観的な要素を通じて、姿のみえない神を可視化しています。どうやらこのように、日本人は神の力を、目で見て、耳で聞こえる具体的なものとして捉えていたようなのです。

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(写真② 託宣神事)
 重要なのは、神は「ある特定の条件下において、その場に降臨したと解釈される」という点です。ならば、「特定の条件下」というコードが、人間でなくともかまわないはずです。
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(写真③ 練り歩く獅子頭)

 次の例を見てみましょう。
 獅子舞は、広く日本各地に継承されている舞です。山梨県都留市谷村に伝わる獅子舞は、毎年8月に行われる地元の金村神社例大祭で上納されています。宮司によって 神輿に遷された氏神様が、 神域を超え、人間の居住区域までやってきます。その後、獅子頭が町を練り歩き、家々をまわります。この場合は、 獅子舞(神)の来訪がコードです。この条件下で、 家 が守られるというご利益をもたらします。

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(写真➃ 獅子舞)
 神のコードは、生き物を模していなければならないのでしょうか。
 そこで思い出すのが「鈴」です。梁塵秘抄に「鈴はさや振る藤太巫女(略)」とあるように、鈴はシャーマン(巫女)が操る呪具です。 やがて鈴の音は、神そのものを表すとされるようになりました。
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(写真⑤)

 2016年の愛知県古戸の花祭見学の折には、とても興味深いお話を聞くことができました。舞人は神楽鈴を持って舞います。振り付けの中には、下の柄ではなく、上についた楽器そのものを握って踊ることで、音をこもらせる動作があります。保存会によれば、その後、柄に持ち変えて通常の音を出すことで、「神の降臨」を表しているのではないか、とのことでした。現在古戸ではポゼッションの儀式は行われていません。その代わり、鈴の音を聴かせることで、神を聞こえるようにしています。

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(写真⑥)

 以上のように 、日本人は神というコンセプトを、目で見て、耳で聞いて、時には触れることもできるものに変換することにより、神の存在を認識しているのです。

 

 平井暁子

お茶の水女子大学文教育学部を経て、同大学院人間文化研究科博士前期課程修了。パリ・ソルボンヌ大学 にて音楽学修士号取得。2015年度・16年度同大学非常勤講師。現在、同大学第5博士学院在学及びIReMus研究員。

専門は民族音楽学。神楽紹介サイト運営。
www.akikohirai.com

 


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