団扇には、大相撲の行司が勝敗を示す軍配団扇、七輪の火を煽いで調整する渋団扇、水に浸して使用する水団扇、神輿の担ぎ手を煽ぐ大団扇など様々な種類·形態が存在します。ここで取り上げる団扇は、日常生活において片手で使用できる竹やプラスチックの骨組みに紙や布を貼った丸団扇を対象とします。(写真① 夏祭りで団扇をもらう人々) |
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この団扇は、奈良時代に古代中国から伝来した翳(さしば)が原型とされています。この翳は、貴族などの権威を象徴する道具として使用されていました。その後、庶民にも伝わり、虫を追い払う道具や送風機として様々な身分の人びとにも使用されるようになりました。江戸時代には、団扇専門の職人が登場し様々な団扇が作られていきました。団扇をはじめとする扇類は、かつて権威を示す道具であったため古くから贈答品として贈られていました。その他にも、扇類は神の宿る依り代や厄災を払う呪具とされています。 (写真② 出産の祝い返しに贈られる初山団扇(群馬県館林市富士嶽神社初山大祭))
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その中で団扇は、他の扇類に比べて広告塔や中元などの贈答品とされてきました。 現在でも、夏に町を歩くと宣伝の書かれた団扇や店名の書かれた団扇を貰えるなど贈答品としての団扇は存在します。この団扇の贈答とすることは、明治時代以降のことでした。江戸時代に記された日記などを見ると、扇子を贈答した記録が多く確認できます。団扇を贈答する記録はほとんどありません。(写真③ 現在の贈答品としての団扇(長野県松本市)) |
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明治以降に団扇の贈答が盛んになった背景として、団扇の製造が盛んになったことが大きな要因と考えられます。明治時代、団扇は日本を象徴する工芸品としてイギリスを中心に大量に輸出されていました。それに合わせて、国内の最大の団扇の産地である香川県丸亀市の団扇製造が近代化していきます。かつては、丸亀市の団扇は金毘羅宮の土産物として下級武士の内職として作られていました。その後、団扇を作る工場が整備され、大量生産が可能になります。それだけにとどまらず、丸亀市では団扇の骨の部分を大量に生産して販売し、全国の農家が内職で団扇が完成させて、団扇問屋がそれを買い取り国内外で販売が行われていました。その他にも、七輪などの焜炉の普及によって団扇の使用する頻度が増加したことも要因です。そうして、団扇は実用的な贈答品として重宝されるようになりました。 (写真 ④商店の広告塔としての団扇(長野県松本市)) |
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現在では、扇風機やエアコンなどが普及して、団扇が使用される場面は少なくなっています。しかし、団扇は単ある送風機だけではなく、贈答品であったり広告塔であったりと様々な役割があります。それらの役割がある限り、私たちの生活に団扇は存在し続けるでしょう。
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市東真一
長野県松本市生まれ。国学院大学文学部日本文学科伝承文学専攻卒業。神奈川大学大学院歴史民俗資料学研究科博士前期課程修了。現在、同大学院博士後期課程に在学。専門は民俗学。
現在、埼玉県熊谷市の熊谷うちわ祭を中心に、町鳶と旦那衆の関係性、団扇の民俗などの研究を行っている。
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