僕は、伝統も手仕事も身近ではない東京郊外のニュータウンで育ち、たまたま入学した美術大学で「やきもの」と出会いました。そんなこともあってか、始め から素材を芸術表現のメディウムとしてとらえ、その可能性を模索してきました。
伝統的な表現は、卓越した技術や地域性を継承しつつも、時代背景に影響を受けながら少しずつ変化、そして進化をしています。僕のようなどこの流派にも属さない「根無し草作家」は、同じ様な内容を個人のなかで行おうとしているのだと思います。
概念による芸術もすでにある意味で伝統化して、AIのニュースが毎日のように耳に入ってくる中にあって、「芸術の人間らしさってなんだろう?」「実材と それを変化させる行為から離れられない工芸にはどんな可能性があるんだろう?」と最近よく考えます。
そんなことを考えていると、すでに芸術表現には必ずしも必要では無くなった、素材や行為というのが実はすごく面白いことに思えるのです。意識的な行為、無意識の行為、時々失敗、それらの影響をキッカケにした反応としての行為、そしてまた反応・・・。
行為を軸に意識と無意識、そして揺らぎを集積させると、現れる「もの」はあらかじめ決められた目的や結果に向かって集約されるだけではないのです。瞬間における決定、あるいはその決定に左右され続けることもあります。同時に概念も瞬間に左右され続け、いたる道筋結果がつねに揺れ動き、瞬間の累積でモノが現れます。
アルゴリズムの外側でモノが出来上がるような感じです。
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